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生と死について


塾の教え子のT君が訪ねてきた。もう大学の4回生になるとのことだが、持病の心臓の不具合のこともあり、毎日、バス旅をしたり、ショッピング・モールに出かけたりで過ごしているとか。先週も、「こども病院」で検診の結果、即入院というようなことがあったとか。「時間が一杯あってうらやましいね。」と言っても、一向に通じない。ちょうど、カミユの『ペスト』を読了したところだったので。頭がくらくらしそうだった。「死と不幸」という不条理に真摯に向き合いながら、「できるだけ気を緩めない」で戦う主人公たちとの落差に。かれは、本一つ読むでもなく、将来のこともまるで考えず、夜寝られなくならないために、近所を彷徨している毎日なのだ。それでも、「死」と向き合っているのだろうか。

先月の知人の病死以来、「死」のことが気になってならない。全体、「生」と「死」とは全く別の次元のことなのだろうか。いくら「死」を見つめ、その不条理を認め、それでも愛と行動を止めず、「信頼と共感」の第三の道を生きようと、そんなことはしと何の関係もないことのようにも思う。形而上学への飛躍も。信仰への帰依も、唯物論的合理主義への回避も選ばないとしたら、どういう確信に到達できるのだろうか。

たまたま授業で取り上げた、岸田秀の『死はなぜ怖いか』の一節に、「自己というものを持たなかったとすれば、死の恐怖はありえないだろう。」とあった。

多分、言語(と時間)を持つことによって、「人間が生物学的生命そのものを生きることができなくなって、「壊れた本能の代用品として」自己を持つに行ったのだという説明はわかりやすいが、人の営為は、「この不安定な自己に安定した基盤を与え、死の恐怖から逃走しようとする企てある」と言い切られたら、また気持ちがざわざわする。

よく「永遠なる魂」とか、「死を持って終わらない霊魂」とか言われるが、わたしは、まだそれについてなにも分かっていないことに気づく。今度の「死について」で、しっかり学ぼうと思う。

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「高句麗伝説」第3弾