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私の癖と疎外の元は、やはり真ん中の性と考えます。姉とも弟ともほぼ2つ違いで、その3人を母一人が世話をする状態でしたので、どうしても手が足りませんでした。3人は其々全く違う性格、行動ですから、大変であったと想像します。また、私はかなり手に負えない所があったのでしょう、よく一人取り残されることがあったと記憶します。そんな中、私の中では「私が居なくても家族は成り立つ」と言う概念が出来上がったのだと考えます。今振り返るとかなり異常な状態であったとも考えます。心の深層にこの概念が着座し、「皆」の中に自分は含まれない感覚がずっと拭えませんでした。「皆」と言われ、自分も当てはまることは理解します。しかし、その輪の中にかけがえのない人間としては存在せず、取るに足らない人間で、いてもいなくてもいい、あまり必要でない存在とその深層に着座する概念から発せられているようでした。昨日のジェンダー講座では、母親への恨みのことをお聴きし、それは自覚しておりました。しかし、「物」たらしめたことへの恨みとは驚きました。ここ数週間、心臓辺りが痛かったのですが、本日のビデオ講演会の間にまたうずき、心臓の上に「うらみ」と黒い文字があるように感じられました。痛みは恐怖からと思い込んでおりましたが、恨みだったのかも知れません。そして、私は母への恨みを高麗さんに投影していたのかも知れないと考えました。すると、段々と自分も皆と同じ1人と感じられるようになり、心の中が温かくなっていくのがわかりました。この癖が業であることは前から承知しております。しかし、その場に居ていいとか、人が大勢いるのに自分も必要なのかと言葉で言われない限り安心できず、本当は迷惑だと思考がめぐってしまい、自分で自分に「迷惑じゃない」と言い聞かせて留まっていることはよくあります。しかし、本日、これが業であるならば、
本当は私が必要な人たちがいるのかもしれないと気づきました。
業から解かれるこの経験は、出来るものじゃないとわかります。
本日も誠にありがとうございました。
田嶋利江子

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高麗恵子スカイロケットセンターにて
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高知県立美術館 ホールにて