“向き”
昨日8月23日の午前2時ちょうど、パソコンの画面に猿田彦神と天照大神が映し出された瞬間に地震で大地が大きく揺れました。二日ほど前から久しぶりに怪しい!? 月刊誌ムーの編集長やその筋の方々の話を聞いたり読んだりしていました。この作業の関心のスタートは 8/20(木)の三鷹コンサートでの<幼児ーはじまりの向き>のメッセージです。“はじまりの向き”を思い起こそうとしながら閃くままに検索やAIを使いあちこちに飛んでいました。そして、猿田彦や天照大神に行き着いたところでした。また、夕方からのアントレプレヌールサロンでは高句麗始祖の朱蒙様がテーマになるとお聞きしていたので自然と自分が生まれ育った故郷、加古川を起点に幼児期のことを思い起こしていました。
3歳まで遡っているかどうかわかりませんが、幼少期の印象に残る記憶は鶴林寺と日岡山の空気、気配です。鶴林寺は聖徳太子が建立したと伝わり、太子が高句麗の恵便(えべん)法師を物部氏の迫害から守るために鶴林寺に匿って仏教を学んだと言われ,西の法隆寺とも言われています。随分前に高麗さんといだきしん先生が訪ねられたと聞いていました。一方、日岡山は景行天皇の最初の妃となり、小碓尊(後の日本武尊)を産んだ播磨稲日大郎姫を祀る前方後円墳を指す丘です。なぜこの二つの場所なのかというと幼少の頃から家族でよく遊びに連れられていた近くの公園のようなものだったからです。記憶に残るもう1箇所は母方の実家で村上春樹さんの「ノルウェイの森」のロケ地になった神河町の小川の真ん前にあった母の実家の田舎家と周りの光景です。
先生が仰る生後6ヶ月には遥か及びませんし、高麗さんが3歳で世界平和を願っていたという記憶にも驚きを隠せません。ただ自分の“向き”ということでたどたどしく思い起こすのは鶴林寺も日岡山も神河町も光に溢れとてもやさしい気配に満ちていたことです。それが何歳だったのかもわかりませんが、その後の幼稚園から小中高校とこの鶴林寺と日岡山の2箇所は常に遠足や写生の場所、運動時のランニングコース、友人との遊び場、一人でボーッとする場所でもあったので心地よい場所としてあり続けました。
一方で宿場町であった加古川のど真ん中にあった検番の真ん前が実家であったこともあり、京都に似た狭い小路や長屋が並び、その狭い造りの実家周辺は昔の旅籠から旅館へ、カフェからスナックへ、浪人時代に大変お世話になったパチンコ屋が7、8軒立ち並ぶ喧騒の中心でした。だからこそ静かな田舎町に憧れ、いつしか母の実家のような場所を渡り歩いていました。
鶴林寺では子どもの頃は高句麗のことはわからなかったですが、聖徳太子はとても近しい存在でした。特に勉強するというよりすでに自分の中に“ある”存在だったと今振り返ります。熊本に住むようになってから、海上に揺らめく不知火を頼りに船に乗って水俣から今夏の地震で大きな被害を受けた八代市、氷川町へ向かう景行天皇の足跡などを知り、いつしかその息子ヤマトタケルの熊襲征伐の地へ自然と足が向かうことになりました。古事記や日本書紀に書かれている熊襲征伐という歴史は誇張と歪曲が顕著だということを現代の熊襲の子孫たちと出会うことで身をもって理解しました。熊襲の人々はあまりにもやさしい人たちだったのです。実はその頃はちょうど高麗さん、先生と出会った頃とリンクします。熊本城での24時間テレビ・斎藤忠光31時間連続ピアノ演奏や阿蘇アスペクタでのST1スタート、その前後に弊立神宮、阿蘇久住高原、菊池水源などの野外ピアノ演奏、小国町、八代花火大会の会場、宮崎県椎原村の山中でのシンセサイザー演奏などなど、それはそれは大変貴重な経験を熊本・大分・宮崎を跨いでさせていただいたのです。そして先生、高麗さんが世界を回られ始めてからもできるだけ同行させていただき、またはツアー客として参加してきました。
この間に流石に日程的、また費用的に九州から全てのコンサート、講座に参加することが難しくなり、テレビ局を退職し、テレビが持つ多様な機能をフル活用して地域活性化を支援をする会社を起こしました。コンサート、講座がある場所へ移動する度にその地域の活性化支援を企画し、継続的に通ってその地域を支援し、稼いだいお金でコンサート、講座を受け、寄付をし、地域の仕組みを身体で覚え、全国行脚しながら地域の人的ネットワークを深めていきました。かなり早くから川を渡り始めましたが、先生がされている「世界を変える」ということがどういうことかがわからないままに声高に他者に語れば語るほどマイナスに働き、申し訳けない結果になることが続きました。それからはまず先生がされていることを理解することを最優先にして、働いて働いて働いてコンサート、講座に次々と参加してきました。コンサート、講座に参加することは同時に様々な地域の活性化をサポートする事業起こしになっていき、いつしかコンサート、講座と地域活性化事業が両方の入り口から掘っていくトンネル工事のように自分の身体で一つに融合することを目指してきました。
長い間、自分の能力不足の問題を突破できずに来てしまいましたが、昨日8/23(日)のアントレプレヌールサロンは、「報われる忍耐」、「自分をどかす」「最初の向き」など最近次々と先生から表現いただいてきたことの究極の解決策を生きる「道ひらき」と受け止めました。猿田彦神は次々と田んぼを作っては次々と人にあげてしまって次に向かうとお聞きしてきました。朱蒙様の川を渡ることと共通の生き方と感じます。記紀では国譲り神話で天照大神の命を受けて高天原から降りてきた瓊瓊杵尊の「道案内役」が猿田彦ということになっていますが、国譲りの行為は、受容して新しいものにしていく日本的な「道ひらき」がピタッときます。
「新しい中心」は遥か彼方と勘違いしてきたとも感じます。ただそれもこれまでの忍耐によって行き着いた結果と理解します。全ての出来事を身体一つに感じられる豊かな人間になるにはまだまだ先生のお身体にご負担をかけてしまうこととになると思いますが、引き続きよろしくお願い致します。
