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「対話」の不足


高校で、漱石の『こころ』をやっている。これは国語の教科書の定番で、もう50年くらい「現代国語」で扱っている。わたしももう7回くらいはやったかもしれない。しかるに、今回は、前にいだきしん先生が、「漱石を読むと、胃が悪くなりそう……。」とつぶやいておられたのを妙に納得してしまった。「お嬢さん」をめぐっての、「私(先生)」と「K」の三角関係を描写していくのだが、それはほとんどが、「私(先生)」の独白(遺書)であって、「対話」は語られていないのである。いくら「K」に恋の先手を取だからられたからと言って、もう一度話し合う機会を得ないままに、「私(先生)」の独り相撲が続き、しまいに悲劇にいたってしまうという展開に、あきれるばかりである。こんな文章を感性の柔らかい高校生に読ませて、どうなるのか、とも思う。確かに心理描写は見事だし、よくここまでかけるなあと関心はするが、「言葉遊び」的な面白さ以上に、あまり教えることもないような気がする。たとえば、「覚悟」をめぐっての二人の解釈の違いが、結局は「裏切り」に走らせるのだから、これは「蒟蒻問答」であり、漱石の“話芸”にもてあそばれているようなものだ。自我意識の葛藤をテーマにしたと指導書にはあるが、言葉だけの恋であり、信であるようにも思う。「K」はなぜ自殺したのか、をテストで書かせたいと思う。それが楽しみだ。

菅総理の誕生は、この人の「対話」不足なところが嫌だから、ちっともうれしくない。あの記者会見のそっけない対応、交流のなさ、言葉不足にはうんざりしている。前の首相の説明不足、無責任を、ちっともフォローしなかった人の、「言葉遊び」に振り回されたくないものだ。

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