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「君子は憂えず」


「先生はどうして禿げたのですか。」「養毛剤は使わなかったのですか。」

高校生が真面目な顔をして、そう聞いてくるので、かえって落ち込んでしまった。遺伝とか、年齢とか、自分ではいかんともしがたい“外因”のせいにすることもできるが、気が小さくて、いつも心配ばかりしているという“内因”のことが大きいと、自分では思っているが、それは簡単に高校生に語れない。仕事や金銭の心配、体調・年齢への配慮、人間関係の不安、社会への不満、自然災害に対する危惧等々、まさに心配の種は尽きまじで、いつも憂え懼れている。神経質すぎるのだ。漱石や冲也(『虚空遍歴』の主人公)の吐血が身につまされる。「心配ばかりしている」と言われても……。

「内に顧みて疚しからざれば、夫れ何をか憂え何をか懼れん。」と孔子先生のおっしゃることは納得できても、すぐに「わたしは孔子でもないし、君子でもないよ。」と、ひねくれた思いが出てきてしまう。『論語』では、弟子の司馬牛が何を聞いたのか、よくわからないが、たぶんかれも「そう言われても……。」の思いだったろう。

しかし、おかげでこの頃は大分ましになっている。若いときはいつも胃が悪く、腸の具合がよくなかった。他者の視線が気になり、内心のオドオドがひどかった。ただ、好奇心旺盛で、行動的な性格が幸いしたか、旅と出会いと読書によって、生命力を養い得たし、偉人との出会いが自信と新生とを保証してくれた。分けても、イダキシン先生との邂逅は大きい。ピアノの音が「音痴の壁」を越えて、内面に届き、ネガティブな思いを駆除し、快楽と安寧を育ててくれた。あらゆる既成概念や価値観からの解放が起こった。「安心立命」の域に遊ぶことができるようになった。もしかしたら、また髪の毛が生えてくるのかも……。

もう一つ、自分でも驚くことがある。どんなに心配事があっても、生活上の不安があっても、さらには人間不信に陥っても、ともあれ机に向かって、ノートに書き出していけば、不思議に「元気」が回復してきて、「余裕」さえ感じるということである。(「修養ノート」のことも十数年前に、イダキシン先生から教わり、続けていることだ。)

昨夜は、一学期末の学校の多忙で、疲れ切って帰宅し、居眠りばかりしてしまいそうな状態だったが、ともあれ机辺の書類の片づけと整理、そして、掃除洗濯。さらに、やっとの思いでノートに、心のつれづれや、事態の記録を書き出していったら、「これをやってともあれ寝るぞ!」と心に決めていたのに、妙に元気が回復してきたのだった。さすがに深夜零時を回ったので、「書き込み」作業はやめて入床してしまったが。(学校の授業の合間に、これを書く。)             2023.7.15.

 

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