老子顕れ、大いなる道ひらきへ
いだきしん先生のお話の終盤、聞いてる側の状態はまさに仰る通りでした。ピアノ演奏を挟んだ大変奥深いお話のお言葉一つ一つが内面に溶け込み、とても落ち着いていきました。私の場合はちょうど一年前の「闇からの栄光」のコンサート後に先生が倒れられ、わずか3か月で復活されてから今日までされてきたことを受けて起こった自己の変化と共に内面の状態を表現しょうとしましたが、三鷹コンサート後の二日間、あまりにもテーマが大きすぎて中々文章に描ききれないので霧の中を彷徨うようにモヤモヤしていました。その状態が一気に晴れて内面の余計なものが一掃される体感でした。
今回の玄牝に表されている女性の生命の神秘ついては一年前に「天庭」というテーマで表現いただいた世界が更に深まり理解していきました。昨年10/23コンサートの「闇からの栄光」、「闇からの救済は愛のみ」と表現された先生の状況が一年経って、このような形で理解できていけるのかとも感動します。かつその玄牝が老子に繋がっていたことでとてもうれしくなりました。先生のお話にも出ましたが「無為自然」ということばは私にとっては学生時代からとても気になっていたものです。高度経済成長時代に一世を風靡したモーレツ社員というものは人間らしく生きることの真逆にありました。当時の成長社会の枠組みにスッポリ嵌る非人間的な姿でした。社会そのものが明瞭な疎外環境にあり、ちょっと前まで革命を叫んでいた団塊の世代の方々もいつしかその生き方に入り込んでいきました。
当時、社会の壁に繰り返しぶつかり、自己を見失い彷徨する時に常に戻る原点のような存在が老子でした。ただし、現代社会で生きる上で老子の「無為自然」は当時の理解ではどうしても積極性に欠け隠遁生活的な空気がありました。モーレツ社員ではなく、それを超越して社会の中でエネルギッシュに生きていく生き方には物足りなさがありました。そこが乗り越えられなくて今日まで老子は自己の中では隠してしまっていた存在です。今思えばそこまで自己を徹底できないまま中途半端に生き続けて限界にあった時に先生にお会いし、あらためて今回の老子に行きつき、その他にも多くの先人との再会、見直しの作業を経て「人間とは?」を紐解く道ひらきになりました。三鷹では2階席からお聴きしていましたが、先生の白と黒のお着物姿は墨絵の中の老子のように見えました。
世阿弥の「真の花」にて「恋慕」が二部のテーマに出てきた時は怨霊が絡み合う状況を感じ、新たな源氏物語がまさに今身近に起こっているのでは?と書きました。「恋慕」についてお聞きした時に「愛慕」とは違うと教えていただき、怨霊や悪魔祓いと仰ることは祓うのではないのではと感じていましたが、コンサートでスーッと怨霊や悪魔が先生の光に溶けていくように感じ、「わかる」ということの貴重な経験でした。そしていよいよ光の登場となりました。
玄牝は闇の奥にある生成の門であり、そこからはじめて光が生まれ、「陰」の玄牝、「陽」の光が対立ではなく相互生成の環境にあるというのが老子の哲学とお聞きしました。昨年の先生が倒れられた日の二部のメッセージ、「闇からの救済は愛のみ」についてこの一年間考え続けてきましたが、先生が倒れられ、復活してずっと継続して実践されてきたことを公開していただいたお陰で、今回の「玄牝」の理解は自然と深まっていきました。復活されてから、言い方は迷いましたが京都の講座で「確信犯ですよね」とお聞きした時に「確信犯です」と即、答えていただいた瞬間に受けとったことは大きく間違ってはいなかったと今、感じます。「光とは闇を抱くことをおそれぬ魂にのみ生まれる理解の炎」とのメッセージもあの時の先生の強い意志、生きる姿勢に繋がり、やっとこの1年間の自己の存在表現も明らかになってきました。
そしてこの貴重な経験を通してやっと自己の裡に秘めてきた様々な模索の結果も言葉にして存在に変換し、この世で形にする時に向かえます。老子の哲学、世界は不老長寿や修験道に繋がり、日本社会を裏で支えてきた小さな山村に消え入りそうになりながらも継承されている道教の文化は一つの可能性と見えています。先を拓く未来の指針として先生からしっかりと受けとらせていただいている「人生150年」の具体的な生き方、いだきしん先生の実践を学び、身につけることは何よりも求めることであり、好きなことなのでやり続けられます。自らの生き方でしか伝えられない難しさを乗り越えるにはまだまだ課題は山積みですが、漸く次のステージへ進めます。
いつも尊い経験の場と実践する数多のヒントをありがとうございます。いだきアントレプレヌールサロンもよろしくお願い致します。