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「志望理由書」


いま、高校三年生は、推薦入試の願書づくりに大変なとき。「国語の先生に見てもらいなさい。」と担任が気軽に振ってくるが、これは、そう簡単なことではない。それ相応の「手当て」があって、しかるべしと思うものの、可愛い生徒にせがまれれば、見ないわけにはいかない。ところが、それが読めたものではない。理系の工学部やエンジニア関連の学部だから、わたしに明瞭でない、というだけでなく、2000字の枠全部が概念的な単語の羅列に過ぎず、とても本人の意志や意欲とは言えないからだ。しかも、段落も構成も考えず、生真面目に大学のパンフレットの引き写しに終始している。おもしろくもないし、感心もしない。しかし、わたしが評価しないので、生徒たちは、大いにむくれて、しまいには、「じゃ、先生書いてくださいよ!」と言ったりする。

そりゃ、いきなり2000字の文章が書けるわけではないし、彼らとて、それほど「志望理由」があるわけではないのだから、しかたない。受験を避けて、AO入試や推薦入試で、進学を図るからいけないのであって、受験勉強の弊害を避けて、気軽な進学をさせることも問題だと、改めて思う。だから、もっと、積極的に受験勉強にシフトすべしというのでは、もちろんない。もっと真剣に、志を育て、本音を養い、豊かに交流する機会を創らねば、このままでは日本の将来が危ういとさえ思う。

ところで、今日、『サボる哲学―労働の未来から逃散せよ』(栗原康著・NHK出版新書)という本を読みかけたら、いきなり、「人は皆、労働をやめるべきである。労働こそが、この世のほとんど全ての不幸の源泉である。」というボブ・ブラックの『労働廃絶論』からの引用があって驚いた。「自由・自主・自立」を信条とするわたしは、全体主義的な支配と規範が大嫌いだ。だからこそ、アナーキズムに魅かれることが多いが、それでも、それを「無政府主義」とは解釈したくない。一定の社会の仕組みと規範は、どうしても必要・不可欠と思うからである。そして、「働く」ことも。このボブ・ブラックの「労働」は、あくまで「賃労働」のことであって、自分のやりたいことのために働くことの否定ではないと思うのだが。また、アーレントの「労働・仕事・活動」のそれとも違うことと分っている。全体「労働」を否定したら、「志望」は成り立たなくなる……。

ただ、高校生たちは、「自分のやりたいこと」が、はっきり認識できていないのだ。それは大学に行ってから、考えるべきことで、高校の段階では決められないこと、そして、そこまで自分のことをさらけ出して言うのは、控えるべきではないか、と彼らは反論してくる。でも、自分の「志望」を豊かに語れないのは、やはり問題だと思う。それらしき理由付けができないのも、やはり「国語力」の不足だろう。言葉力が落ちると、社会も衰退していく……。仕方ない、明日からまた彼らとやり合わなければならない。(10/9)

 

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