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8月のクリスマス・プレゼント


京都からの都からの帰りの車中、涙が止まらなくなって困った。先日からポケットに忍ばせていた、ケストナーの『飛ぶ教室』がクライマックスの部分に。家からの送金がなくてギムナジウムに滞在を余儀なくさせられたマルティン少年の悲哀、20マルクくれるベーク先生の優しさ、クリスマスイブ、プレゼントを抱え帰宅した息子を抱き占めるターラー夫妻の感激……、「プレゼント」にこめられた人間愛、共感しもらい泣きしてしまうのだが、実は、わたしも二つのプレゼントを抱えていたから、感涙が止まらなかったのだ。

午後の「応用講座」で、最前列に陣取り、手を挙げ、先生から二つのプレゼントをもらったのだ。最初の質問者が「言葉」について訊かれていたので、つい丸山圭三郎の『言葉とは何か』にある、「言葉の恣意性」というところを思い出し、言葉が先かモノが先か、という伝統の言語論について発言してしまう。すると、先生は、「同時だ」と言われたのだ。時間軸に乗せることしか考えてなかったわたしには、まさにコペルニクス的転回に該当する視点だった。赤ちゃんの「オギャア」は、まさに生命と言葉との出会いに近いものなのだろう。オノマトペの多い日本語への視点もひらけそう!

そして、もう一つ、「発達障害」という言葉とその人への接し方について、すごい示唆を得たのである。それは、わたしが何とか「解釈」しようとしすぎて、あるいは、言葉の枠に中に入れようとしすぎて、「その違い」に正対してこなかったこと、ほんとうのところを受容せず、規制の概念で解釈しすぎる「真面目さ」がダメなことに気づかせてもらったことなのだ。

二つの言葉のプレゼント、「同時」と「解釈」! これをもらった感激が、ケストナーの小説の感動と結びついて、涙が止まらなかった。

さらに、帰宅して夜、知人から箱一杯のプレゼントがあった。切り餅、和菓子、果物、カレー、そして切手まで。手紙はなかったが、孤老の身としては、ありがたい贈り物だ。言葉とモノとが同時に届いた。夏のクリスマス・プレゼントだ!

*ケストナーは、ヤスパースと同様、ナチの横暴の中で逃げ出さず、軽いフットワークで抵抗を続けたとか。ベンヤミンの批判する「中途半端な小市民」ではないらしい。そうヤスパースにも目が向いた講座であった。

*食養(≠食療)

 

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多賀城市文化センターにて-2