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言葉と音、音楽への問いについて


昨日のコンサートメッセージで、いだきしん先生から問われていたことをずっと考えました。言葉と音・音楽は表現方法が異なるので、当然、「愛の表現」は違う結果になって然るべきと考えますが、「愛を見失った人間」が行うなら、言葉と同じく音、音楽でも表せないはずです。いだきしん先生が「人間とは」を探求され「言葉で表せない『愛』」と判断され、音、音楽に「愛の表現」を見出されたので、先生が表現されているのは、荘子の云う「攖寧」、老子の「道」でもなく「攖寧」、「道」を超えた「真の愛」の表現をピアノで成し遂げられたのだと考えます。

先生はきっと老子や荘子が捉えた「道」や「攖寧」を超える「ある何かの状態」に出会われ、老子、荘子以上に言葉に限界を感じられていたと想像します。そして探求に次ぐ探求の結果、遂にピアノに遭遇されたのではないでしょうか。老子の「道」、荘子の「攖寧」を超える「愛」はさらに「真の愛」となり、言葉では人間に伝わらないので、先生しかわからない「状態」だったのに研鑽を積み重ねてピアノによって表現することを可能にしてくださったので、今日も会場に座っているだけで「真の愛」を経験できる我々の幸運があるのですね。

そして言葉にすればするほど違うものにズレていく我が身に戻れば、「愛が遠のき、気まずくなって沈黙するよりない状態に陥っても、もし『愛』のなんたるかを了解できたら『愛』の内で生きられる」との希望溢れるメッセージに昨日まで立ちはだかっていた大きな壁を乗り超えられました。ズレている状態からはついつい全否定に行きがちですし、実際に昨日まではそのような状態が大きな壁をつくっていたのでした。表現を正確にできない上に(もちろんそれは常に訓練、鍛錬、探求すべきことです)愛のなんたるかを自らの力では了解できず、悶々としていたことが行き詰まりの正体とは見えてきていましたが、やはり「自ら了解する」ことは至難の業です。いつもいつも大いなる愛をありがとうございます。

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