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自分の根源にある言葉――映画「ドライブ・マイ・カー」再論


映画「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞に輝いたことはうれしい。ただ、先日も書いたように、わたしは映画に違和感を持っている。3時間に及ぶ大作を見て、原作の村上春樹の短編集の主題「内面と真摯に向き合うこと」こと以上に、「問題山積」で少しついていけなかったと感想を知人に伝えたら、いや、あの映画は、「傷つくべきときに、ちゃんとその傷と向き合え」というテーマであって、「自分の根源にある言葉」によって、それが可能になり、そのための方法として、徹底した「本読み」や、日本語と外国語・手話をそのまま使う会話があるのだと解説されて、一応、納得した。しかし、新聞等で、映画の解説を読んでいて、あらためて、考え込んでしまった。

「観客にセリフを言わされていると見えないようになるまで」本読みに徹するという音読主義については、理解できるのだが、外国語や手話との会話という回り道をすることによって、ほんとうの「傷と向き合う」ことになるかどうか。言葉が通じないことを逆手にとって、必死に思いを表出しようというのか。なにか映画ならでは、「見せ場」づくりのようにも思えて、実際的の効果については、正直分からない。やはり、ああも言いこうも言う努力、正直な気持ちを伝えようという優しさ、時間をかけて、うまく抽象化して、合意点を見つけようという、しなやかな気持ちが合ってこそ、「自分の根源にある言葉」が見えてくるのではないか。

そして、「自分の根源にある言葉」だからと言って、いつも変わらずそこにあるとは限らないと思うのだ。「本音」は生き物なのだ。刻々とした変化の中で輝いていて、つかまえたと思えば「青い鳥」でなかったようなもの。だから、そこに到達するための一つ試みとしての演出だと理解するが、ちょっとエンターテイメントに過ぎるように思うのだ。

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「高句麗伝説」
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