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能力主義と共感性


自分の中で『仕事が出来ているんだから良い』と思って何か人として大切な(不思議とだいたいの人が学ばなくても最初から持っている気がする)ことをふいにする瞬間がありました。目の前の人をちゃんと見る事が出来ずに、自分の都合で見てしまい、合理的に計算してしまうことがありました。心のどこかで『このお客さんがダメでも他から支持を得ているから何も問題ない』と判断してしまい、(そういう規準が自分には社会に出てからずっとあったのですが)今日ハッキリと、その考え方、在り方は違うと感じました。なんであんなに、相手のことを考えられなかったんだろう、という看過できない恐ろしい手応えです。同じ所にずっとあったけど人間として未熟なために見えなかったある大切な何かがふっと見えてしまいました。

きれいごとは意味が無い、社会はみんな嘘つきだと思うところがありました。だけどその嘘つきに見える社会は、私の視界には映らない大切なものを、実はみんな共通に持っている感じがします。それはわざわざ口に出す間でも無く人間として大切なことで、あまりに常識なので馬鹿らしくすらあり誰も口にしないのを良いことに、好き放題やっているのが今の私という感じがしました。

この『何か』こそが人類普遍の共感性な気がします。

『これやってるんだから良いでしょ?』ということではなくて、常に全方位的に感性を研ぎ澄まして生きていないと、人間でないと、悪寒が走りました。課題を一つこなして、フー、これで誰からも文句は言われまい・・・と思っているような生き方は、見る人から見れば本当に幼稚なものなのだろうとズシンと重く体内に響きます。

今日お目にかかったそのきっかけを下さった方のお顔を忘れません。合理性や成果主義の罠にかかり共感と目の前の人をないがしろにした罪はこうして時間が経つごとにジワジワとブーメランのように我が身に返るのです。思いがけずごく普通の日が、後から振り返るとターニングポイントともいえるほどの日であったのではないかと予感すらします。目の前の方が幸せでありますように、という理念から合理主義の罠で簡単に転げ落ちました。ごめんなさいとしか言えず、普通なら絶対にあんなことにはならないのに・・・と思ったとしても、判断を誤るのは自分の中に誤る元があるからで、在り方を改めて問われたように感じました。

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