肌で感じる
雨と風で、また冬に逆戻り。スクーターはダウンコートを着ていても寒い。「肌寒い」どころじゃない、と思って、また、日本語の可能性に気が付く。先日、NHKで、「皮膚は脳0」という、「皮膚」の素晴らしい機能を紹介する番組を見て、あらためてびっくりした。なんと、皮膚は五感が備わっているとのこと。われわれは皮膚感覚で生きてきたのだと知った。一般意味論のコージブスキーは、「抽象のレベル」として、「できごと」☛「知覚」☛「情動」☛「運動」☛「象徴」(言葉)の段階があることを示したが、日本語には、この「知覚」レベル、皮膚感覚レベルのことを直接表現する言葉あるということ。すなわち、「肌ざわり」「肌が合う」「肌を許す」「肌で感じる」「肌を脱ぐ」など。赤ちゃんは、裸の肌で抱かれると安眠できるとか、テレビで言っていた。「腹が立つ」とか、「首が回らない」とか、「腰が据わる」とか、体言葉が多い日本語を活用すれば、認知症も、発達障害も解除の方向に向かうのではないかと考えている。
いま、転居先を探して、あちこちの物件を見て回っているが、いくら「広さ」と「家賃」とが適応していても、壁に触れ、窓を開け、床を踏んでみて、どうもぴったり来ない体験をよくする。そして、全体の雰囲気も、そこで「肌に触れ」てみて、「合う・合わない」を感じてしまう。ただ、うまく「肌感覚」がOKしているのに、ちょっと不便だったり、高かったりすることもある。その場合は、もちろん、感覚を優先するが……。
(昨日の答案:今度の連休には、どこか遠くへ出かけて裸でくつろぎたいものだ。)