美しい気持ち
第一部「私という人物像を、少しどかしましょう」
「自分について、自分がつくっている像」のことをいいます。
ところが、その像が「本当の自分」のような顔をして前に出てきます。
それで自分のことばかり考えていると、目の前にいる人も、世界も、
見えなくなってしまいます。
しかしながら、自分を消すのではありませんが、
自分が少し退くと、今まで見えななかったものが見えてきます。
聞こえなかったことまでが聞こえてきます。
中国の思想家の荘子は「至る人」と書いて「至人」(しじん)といいました。
至人は己は無いといい、
至人のはたらきは鏡のようであるといいました。
鏡は来たものをうつします。去ったものをとめません。
うつしたものを自分の中でたくわえて
「これは私のものだ」としません。
こういう自分に邪魔されてはいけないということです。
つまり、世界が現れた瞬間に、世界を「自分」に変えてしまいます。
故に、この「自分」、私という人物像を少しどかし、剥がしましょう。
第二部「世界と出会う」
自分でつくった自分の姿に、
知らないうちに縛られていることがあります。
その姿が少し消えると、
今まで見えなかった人が見え、
聞こえなかった声が聞こえてきます。
世界はこちらが思っているより、ずっと大きく、
ずっと新しいのです。
自分を守るためではなく、
人と出会い、世界と出会うために生きて
みましょうか。
今日もとてつもない経験が起こったコンサートでした。遅くに帰宅しましたが、一休みしないと書き込みをする気力も体力もありませんでした。魔界なのか、どこの世界なのか、異世界に行き、アンコールの時にはこの世に帰ってきたような体感となり、涙ばかりが込み上げました。開演前にも涙が自然と滲み、影アナで声を発すると涙があふれそうになり、抑え込み詠ませていただきました。コンサートメッセージは真にタイムリーでした。開場前にビデオ講演会で話していたことの答えがそのままメッセージに書かれてあり、大変驚きました。お話ししたことの答えをすぐにコンサートで経験できますことは真にありがたいことと感謝し開演を迎えました。「私という人物像」という表現に最近特にずっと考えていましたことを的確に表現していただき、図星の表現に出会い、抜け出していける希望が生まれました。演奏をお聞きしながら、3歳の時から神様と呼ぶ存在と対話しながら生きてきた人生を振り返りました。そんな神はいないと先生からずっとおっしゃっていただき、自分でもわかっているのですが、未だに神様はどう見るかを考え、自分を作っていくことのおかしさをなんとかしたいと取り組んでいるのです。綺麗にお掃除することも体に良い物を食べることも、悪い感情が生まれたら押し込めるのも、人類史上初めての運命解放というこの世の奇跡を経験しながら、人に伝えないことの恐ろしさも、はたらいていないと罪悪感を感じることも、まさに自分で作った私という人物像によるものです。最近は作ることも繕うことも、疲れ果てました。より良く生きていきたく目標を持ち、取り組んでいく時、人間修養ができることがありがたくそう生きることが好きで生きてきましたが、今になれば要から逃げていたのかとも感じはじめました。自分が悪いと自分を責めることばかりで、自分を殺しているようで、やってられなくなってきました。どうしても最後は自分が悪いとなっていくのは、根強く刻まれたキリスト教の原罪故です。究極は男女関係です。この世では結婚をし子供を産み生きることを罪としませんが、私は許されないと強く感じ、生命の奥に恐怖が刻まれているようにしあるのです。常に神の目が見え監視されていると感じ、まっすぐに家に帰り、疑われることはしないようにし、仕事や活動だけをしていれば問題はないと自然と思っていくのは原罪故と自覚しています。この恐怖を抱えながら死んでいくことの恐ろしさを初めて受け止めました。何をしても良い悪いと判断する頭のはたらきを変えたいと願い続けてきました。演奏中に作り上げた人物像の私でこのまま生きたら死ぬよりないと見える瞬間がありました。生きるか死ぬかがかかっていることを受け止めました。自分だけでなく、社会全体もそうであると見えました。最近は生きるも死ぬもおおいなる存在に委ねていくよりないと考えるようになりました。メッセージの中に荘子の「至人」という言葉がありました。己は無いと書かれてありました。その後のメッセージもすごい内容でした。上記に書かせていただいていますので、再びここには書きませんが、鏡となり来たものをうつし、うつしたものを自分の中でたくわえて「これはわたしのもの」とはしないという言い回しを考えました。私には過去と感じました。私という人物像をどかし、剥がしましょうと書かれてありましたので、自分があらわれると苦しくて生きていけない限界を感じましたので、少しどかしました。鏡に映ったものは歴史でした。それも闇の歴史でした。しばらく闇に覆われた世界で身動きできず、苦しみました。過去は完全に終わったことをわかりました。その時、未来よりないと明らかに見え、朱蒙様が現れました。昨日の先生のお話を思い出しました。「未来へ矢を打つ」と朱蒙様が示してくださいました。今後生きていくのはこれよりなしと生命をもってわかりました。昨日先生からお話しをお聞きでき、本当に良かったと安堵しました。それほどに、未来につながる今が見えずにいました。
第2部も異世界を旅したようで、なんとも表現し難い感覚が続きました。メッセージに書かれてありました「自分でつくった自分の姿に知らないうちに縛られていることがあります」は深くうなずきます。「自分を守る為ではなく、人と出会い、世界と出会う為に生きてみましょうか」とのお言葉がずっと心にあり続けました。おおいなる存在につながりある生命を感じることができ、「生きている」と感じることができました。最後はずっとおおいなる存在を感じました。そしてアンコールでは先生の愛の演奏に涙込み上げました。子供の頃から、生きる喜び、楽しいことは何かを考え続けています。毎日同じ道を通り、同じ顔を見、同じ反応を見ていると、死にたくなる程虚しくなるのでした。美しい愛のピアノ演奏をお聴きし、人間が人間としあること、人間の美しい気持ちに触れると生きている喜びを感じます。最も純粋な気持ち、心、魂に触れることが楽しいと感じる時です。人間が人間であれば、誰もが生きていけるのです。その時、場も状況も関係ないとわかります。人間は同じ空間で生きているのです。皆が生きていける空間はコンサートの空間です。涙あふれコンサートが終わりました。
ウクライナの方は大変厳しい状況にありますので、久しぶりにお会いしウクライナのことをお尋ねしました。故郷がドローンの攻撃を受け大変危険であることをお話しくださいました。日本にいて家族を心配し、お辛そうでしたので、先生のコンサートのはたらきを繰り返しお話しさせていただいています。経験した後はお顔の表情がやわらかくなり、穏やかになります。いつも良かったと安堵します。皆様大変喜んでくださっています。夜にニュースを見れば、ウクライナのドローンがロシアを攻撃していることが報道されていました。コンサート中に生きるか死ぬかになっていると見えたことはこのことからも痛く感じます。
帰宅し、至人について少し調べてみました。己を無くし、自然に任せるという表現が書かれてありました。わたしは己を無くす修行はできませんが、自分で作った人物像と先生が表現してくださいました自分がいると生きていけないと感じる苦しみを感じました。どいてもらうよりないとのメッセージのお言葉を受けた時、大いなる存在に委ねて生きることより生きる道はないと見えました。その時出会った世界はおおいなる存在あらわる世界でした。過去は魔界であったのかと感じる経験でした。朱蒙様のように未来に矢を打つ生き方を身につけていければ生きていけます。とんでもない経験が起こったコンサートでした。涙の行方はどうなるのでしょうか。
これからまだ一仕事ですがこの毎日がどうなっていくのでしょう。明日は未知です。
ありがとうございます。
