“移動高校”構想
「この国は言葉から壊れてしまった」と、映画監督の石井裕也さんがインタビュウに応えていた。(毎日新聞、2021.7.7.夕刊)「崩れた社会を再生させるには、つまるところ言葉の力を取り戻すしかない。」と。全く同感である。じゃあ、どうやって? 石井さんは、「スクリーンの中で家族が交わす言葉を丹念に紡ぎ出し、家族の在り方や再生を示して見せること」だという。わたしは、「表現の実習と対話の実践の機会」を増やすことだと思っている。とにかく人と会い、話し合い、その感慨を書き留める。そして、共有することだ。
「言葉・お金・時間」こそは、どれも人間性の形成に欠かせないものであるが、持っているだけではしかたない。それをうまく使わねば!ところが、それにはかなりの実践訓練がいる。「お金」に狂奔しすぎて、バブル破裂、お金も言葉も価値が下がってしまったけれど、目に見えない「信頼」を構築し、その価値を高めるには、いまとは違う「体験・経験」が必要になるだろう。ここまで考えていたところ、知人から電話があり、盛岡で知り合った人と話しているうちに、「なんとか学校構想を創っていきたい」という思いに駆られたとのこと。
そこで、わたしは、かつて川喜田二郎氏などが「移動大学」を実施し、新しいアカデミニズムを創出したことを思い出し、”移動高校”のようなことを、その知人の吉野や、盛岡や、わたしの若い知人が活動する津山などでやるのもいいかと夢想した。圧倒的な「みどりの聖域」や、饒舌な「山の風」や、復活の「渓流の水」に触れれば、言葉が活性化し、会話は展開し、思想は新領域に及ぶこと間違いない。不登校の生徒や、やる気をなくした青年、批判ばかりの大人たち、そして、介護を必要とする老人を含め、「自由なひと月」を過ごせたら、きっと世の中を立て直す一助になるだろうと。
夢想するのは易いが、実行するには多くの知恵が必要だ。経済的な面や、物理的な場所や建物、そして、なによりも人集め……。わたしとしては、NPOやボランティアでなく、事業として確立していきたい。道遠し、だが、一歩踏み出してみたいものだ。