KEIKO KOMA Webサロン

神性


14日のコンサートの日は、午前中に職場の健診を受けるため久し振りに朝の通勤ラッシュの電車に乗り、都心まで出かけました。いつもより早い朝の日差しの中、いつもより冷たい朝の空気。そしていつもと違う、行き交う人々の波。久し振りの車窓から見渡す風景の彼方には雪をかぶった富士山の美しい姿がありました。通勤ラッシュの重苦しさ陰鬱さには、堪らないものがありましたが、その中にあっても、心身はいつもと違う変化を敏感にキャッチし、生き生きと外に向かって反応しているのでした。そして、いかに毎日同じ通勤路で同じ時間帯に同じバスに乗り、同じ人々と同じ景色を見、その中で気づかないうちに感性が凝り固まってしまっているかを自覚し、愕然としました。

コンサート第一部の先生の演奏が始まるや否や、胸がどんどんほぐれてきて温かくなり、その温かさは瞬く間に全身を巡って身体がとても熱くなってくることに、今までにない身体のストレートで速い反応にとても驚きました。今までどれだけ固く閉ざした胸であったのか。凝り固まった砦の中に閉じこもり、感性は干からびて枯渇しているのに、そのことに気づかずに、自分の感じる事や判断する事にどれだけ自信満々で大きな顔をして生きてきてしまったのか。そのことでどれだけ周囲の人を攻撃し、傷つけて生きてしまったのか。今までの全てが走馬燈のように次々と現れて、そしてそれが次々と結び目が解けるようにして解かれてゆき、私の感性は生きを吹き返していきました。
悪しき呪縛の支配から自由になった感性は、人にも自分にも「神性」を見るのです。そして「神性の顕れる時代」-Divine Ages-と銘打つ、そのものずばりのコンサートを数え切れない程経験させて戴いていることに、ハッと我に返るがごとくに気がつく瞬間。あまりにも遅すぎる自分の反応が大変に申し訳なく、それであっても、こうして気づかせて戴いて、今こそ大きく生まれ変わることの出来る今、今のこの瞬間に、ただひたすら感謝よりありませんでした。

第二部では、「恋」という言葉にビクッと身構えてしまいました。過去の記憶は自分勝手と自己中心しかなく、そういう自らの姿は醜く、嫌悪でしかなく、もう見たくもない、目を逸らしたい、もう恋は御免だと思っていました。メッセージのお言葉にありました、「このような状態を恋だとすれば愛とは異質でしょう。愛はなくても恋は成立し得るのです。」に、尤もです・・と苦々しく頷くも、恋という言葉を、自らの記憶がバイアスとなって身構えたり毛嫌いしている今の状態は、豊かで美しい生命には反していて、胸に小骨が刺さったように違和して、悲しい痛みを感じました。
「しかしながら、どうしても愛ある恋を望むでしょう。」と続くお言葉には心から頷いていました。そして、「ここからどうしましょう。内面豊かな感性が甦ったら 自ずと答えが得られるでしょう。」との結びのお言葉をお聞きして、先生の演奏をとにかく一心にお聴きして、恋にまつわる自分の汚れ歪んだ感性を、美しく豊かに甦らせて戴きたいと心から願いました。汚れ歪んでしまった感性ではかすりもしない位、「愛ある恋」は神聖で美しく、宇宙大であり、今、神性に目覚めた人間は、誰でも皆そこへ到達し得るのだと、そこに大いなる可能性を見て、そう成れることを楽しみに生きようとする心に変化していきました。

アンコールの手拍子で、先生が途中で演奏を止められて「みんな自分勝手。」と仰ったとき、「自分勝手、自分中心の感性はもう本当に要らない!全部捨ててしまう。」と心に叫び、あらためて手拍子を始めました。そして自分一人が打つ手の音はか細くても、ここに集まっている人達みんなで手を叩くと、すごい音の層と響きとベクトルになること、そこには一人一人の生命の力が宿り集結していることを感じて、人間の持つ力の凄さ、一人一人の存在の尊いことを深く実感しました。

大きな気づきと、生き生きした感性の目覚め、成長の機会を戴く、かけがえのないコンサートを心から有り難うございます。
先生が復活なさったことの凄さを、心身の深奥からじわじわと感じ続けています。
草木の成長していく姿のように、自分も生まれるままに新芽を出して、留まることなく生き続け、伸び続けていきます。

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