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”無差別殺傷事件”に思う


8/6に神戸北区での高2刺殺事件の容疑者が逮捕され多と報じられ、翌日の新聞には、かれは「女の子と一緒に話しているのを見て腹がたった。」と供述しているとのことが分かった。殺害された本人と犯人は全く面識のない退学高校生だったとか。すると、昨日は、小田急車内での刺傷事件。今度も、逮捕された36歳男は「誰でもよかった」「幸せそうな人を見たら腹がたった」と言ってるそうだ。人はどうしてこうも簡単に憎しみを持ち、刺殺や刺傷に走るのか。呆れてしまう。こんなことを繰り返させてはいけないと思う。

非難しているだけでは仕方ない。わたしは、感情表現の鬱屈が二つの事件の根底にあるように思う。神戸の事件では、容疑者は数か月前に高校の退学処分にあっているし、東京の方は、6年くらい前から他人の幸福に嫉妬していたようなことが報じられている。その自分でも消化できない苦悩や憎悪の感情に随分苦しんでの上での犯行だろう。だとしたら、その心情をだれかに話せていたら、いや自分自身でも言語化できていたら、少しは理性のブレーキがかかったのではなかろうか。表現力と言葉力の必要を痛切に感じる。

と、今日、神戸での「表現の会」で話したら、一人の参加者が、2008年の秋葉原事件の犯人に捧げる自作歌「ここではない、どこかへ」を歌った。現実の日常社会の中で圧迫され翻弄され、行き場のない苦悩が事件の背後にあると言いたいのだろう。ただ、わたしは、犯人に共感するところはないし、同情もしたくない。なんとか暴力行為や殺人を避けるすべはないかと考えるのだ。

思えば、神戸では、1997年に「さかきばら」事件があり、「ふつうの中学生」の犯行に驚愕が走った。あんな文書を書ける少年のことを思えば、単に「表現力・言葉力」の問題と済ませられない。また、2016年の「相模原障害施設殺人事件」の「意思疎通できない障害者は殺すべし」の理屈にもついていけないものがある。わたしの教え子の娘さんが殺害された2001年の「付属池田小事件」の犯人宅間守の「エリートへの恨み」という動機だけは、それまでの無茶苦茶なかれの経歴から到底許容できなと思ったが。――要するに、今回のこともうまく考えられないのだが、身勝手な憎悪や怨恨をなんとか回避すべく、客観的思考や普段からの表現行為で乗り越えていかねばと思った次第。(2021.8.8.)

 

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