時空を超えた存在、光について
昨日の「存在論」「死について」の二つの講座はイエス様と いだきしん先生の2,000年の時空を超えた存在、生命の繋がりとお二人の「死について」の向き合い方から自分はどう考えるか?をテーマに臨みました。
存在論で、「文章の行間を読む」ということは「書いた人そのものが見えること」とお聞ききしました。文章に存在が現れるということでした。そのまま「フィクションと嘘」のお話になりました。わたしはイエス様と会われた先生が仮にイエス様の小説のようなものを書かれるとするとフィクションとはどういうことになるのだろう?との疑問が湧き、お聞きしました。
非常に深いお答えをいただき、対話させていただきましたが、「だから いだきになった」がお答えと受け止めました。わたしは最近先生がよく話されているので、ずっと自分の中で考えていること、「これまでにやったことがないことをやる」ということにこのお話がつながりました。言葉で表現する文学、小説だけでなく映像やアニメ、映画、ネットや VRやARなどの多様な表現の融合で先生とイエス様の存在の繋がりの新たな表現の可能性があるのではないか、と先生との対話で強く感じました。
また、GAFAの一角を担うGoogleの今後の動き等のことも關係すると教えていただき、この話を突き詰めますと結局、「言葉では表せないから いだきになった」とは先生の存在と生命交流の一瞬一瞬を余すことなく表現するピアノの音を通して「存在」そのものを変える経験である「いだき」の機会を創り続けることになられた、と捉え、そこまでのお話はストンと腑に落ちました。
「死について」では「生まれた瞬間の光で生きる」ことが求められていることは3回に渡って受講させていただいた先生のオンライン「いだき」でよくわかりましたが、「生まれた瞬間の光のままで死ぬ」ことが今回のメインテーマと考えて臨み、講座を通して自分自身の疑問は解けました。そして二千年前に十字架に架かって亡くなられたイエス様は「あの行為」によって「生まれた瞬間の光」のまま亡くなったのではないか?との疑問が湧きお聞きしました。「そうです」とのお答えに続いて先生とイエス様の出会いは奥様の晴美さんを通して起こったとお聞きしました。美しい魂は美しい魂に現れるとの魂のお話についてとても理解が深まりました。ビデオ講演会で高麗さんも語っておられました。
さらに先生と奥様の晴美さんは言葉を交わさなくてもお互いのことが理解し合えていたからこそ、先生が家を出て、今に至る道を歩めたとのお話もこれまでもあるイメージで感じていたお二人の関係性についてしっかりとお聞きでき、本日のジェンダーに繋がる大変有り難い二つの講座を経験させていただきました。
いつもありがとうございます。
たまたま3日前から先生の「12月24日」のCDを何度も聞く偶然も重なり、イエス様と先生の存在の繋がりが二つの講座のテーマになりました。CDのジャケットに書かれていた先生のメッセージが衝撃でした。このメッセージは何年前のことでしょう・・・。
生命あるもののかなしみを自分の身にまとい 犠牲になることによって生命が光に包まれた。12月24日。出会いが何の犠牲もなく生命の輝きを得た。生命と生命の出会いの場としてのPiano Improvisation 、ようやく自分のImprovisationが 大いなる自然に迎えられました。