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映画『パターソン』を観て


すごい雷雨が朝晩にあり、いまは「大雨特別警戒警報」が阪神間にでているとか。このところの豪雨災害の地方都市のニューズをきにしながら、映画『パターソン』(DVD)を観る。知人に「根源解決の道」のイダキコンサートを勧めたところ、自分はすべて「解決済み」、「人を動かす」ことから離れて暮らしたいと、自分の理想の生き方の一つのモデルとして、この映画を見てほしい、と勧められた(矛盾しているけれど)からだ。

2017年公開のこの映画は、ニュージャージー州パターソンで、バス運転手をしながら、愛妻と愛犬と暮らす、詩人パターソンの一週間の記録である。町は、有名な詩人、ウイリアムズやギンズバーグの出身地で、大きな滝がシンボル的存在の歴史ある地。日々の感慨や、愛するものへの心を詩に書き、街の小さなトラブルの中で、ユーモアを含め、暮らす青年の話だ。瞑想や健康法に関心を持ち、障害のある息子さんと地方都市で暮らす知人が、一つのモデルととらえ、理想と考えるのがよく分かった。その知人自身も詩歌を創っている。

ただ、わたしには、それほど深い感動が起きなかった。詩を書き、まじめに働き、愛を生きるところまでは、わたしの理想でもあるのだが……。殺人も暴動も、そして危機もないことが不満なのではない。(いま読んでいるグロスマンの『人生と運命1』とのあまりにも違う、ということはあるが……)戦争や危機はないに越したことはないのであるが、なにか「箱庭」の幸福を描いているようで、上品な笑いの味付けだけで物足りない感じがする。「運命」から解放されたら、こんな幸せが来るのかと、首をかしげてしまう。波乱万丈の物語、刻苦勉励の成果、有為曲折の恋愛を望んでいるわけでもないのに、物足らなさを感じる。いい年をして、「安泰」を願いつつも、ほんとうにそうかと、自分に聞きたくなってしまった。昨日と同じ今日はない、ありふれた日々であっても、紡ぐ言葉はみな違う。「楽しさ」も「優しさ」も皆それぞれだ、それを詩にする行為は、わたしも共感するところだが……。まだ人生の設計図が描けない。(2022.8.17.)

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