KEIKO KOMA Webサロン

感謝の春


雪道に光差し込みまだ距離のある春の季節を少しだけ近く感じます。白く照る固い地面は吐く息の白さと同化し、雲間からの太陽は長い歴史の開放を告げるようです。ウェブサロンを開いて、見ては、書きたくない、また開いて、見ては、書きたくない、また開いて・・・ビデオ講演会をまとめて拝聴しやっと書くと決めました。(東京滞在中はスペースがなくビデオ講演会をお聞きできなかったのです。20回コンサートの時にお世話になったところはもう出ていかないといけないのですが、のこのこ間借りしていて、そうなってしまいました。)13日の高句麗伝説に無事に辿り着き参加できましたことありがとうございました。16日のアントレプレヌールサロンもありがとうございました。意識を緩めると号泣しそうになる自分を受け止められずなぜかと問えば、もう全部全部嘘だと自分を一つも信用していないもう一人の自分が居ます。お前の感じていることは全部嘘だ、お前なんて全部嘘だ、嘘だ嘘だと今はもう力なく叫ぶもう一人の自分はとても悲しい存在だとわかります。思い切り「お前なんて嘘だ嘘だ」と叫ばせておけば、本当に力なくしぼんでいくようでおかしいです。そして悲しさのほのかに香る空間に、何も被らないもとの姿が残ります。もう一人の自分は高句麗伝説の最中もどこか他人事で疎外感を持ち、しかし前後の片頭痛には「これは変わる」と予感し、大切なときの疎外感は、普段自分が自分のことを見ていないからと今表現をさせていただくなかで気付きます。いつもこうして疎外感を感じてきたことは、ありのままでは生きられなかった過去の産物であり、これからの時代は逆に疎外感のあるままでは生きられず、かわいい次世代の子供達も生きられないですが、でも疎外感のあることがあまりに当たり前だと疎外感のあることにすら気付きません。5月13日のお席の話をお伺いし、満席になっているのであれば自分は参加をしなくても空間を伝播したり配信でお聞きできれば良いなどという、なんというか浅ましい、というか、何様なんだろう、というか、謙虚と見せかけたものすごい傲慢さ、というか、人としての権利を放棄することで自分という存在の責任逃れをする愚かさと自分への怒りを感じました。怒りを感じ切ると、どうしてそれほどまでに己を粗末に扱って当然と思っているのか、という悲しさも浮かんできました。なんて人生に対していいかげんで不真面目で他人任せなのだろうかと。ここまでのことは自分一人で気付いたというよりは、「コーヒーは期限の切れたり廃棄するものがあればいくらでも持ってきてくれ」という友達が鏡となって見せてくれたこともあり大きくわかることができました。なんだか一見、「みんなの残り物でいいのよ」と謙虚そうでありながら、周りみんなを不幸に巻き込んでいく、愛なく、せっかくみんなで高めていこうとやってきた全体の次元をあっけなく下げてしまう、得体の知れない闇の感じを得ました。そして言う間でもなく自分自身の姿とわかるのです。自らより高い幸せを求めていかない人間はもはや人間ではないと、これまでの自分であれば出ることのないであろう言葉が生まれるのでした。これまで自分としては当然以外の何物でもなかった自らの物の見方を疑う中、様々なことから人間は「足りない」ということはなくて、すべてはそれぞれに「ある」という見方がもとではないかという、これまでと違う視点を得ています。その感覚を当然に持つ人とそうでない人がいるのです。あまりに飢えを感じている状態なので、催しに参加させていただいても、吸収することが精いっぱいで表現に至らないようでした。それかウソの表現をするかになってしまうのです。アントレプレヌールサロンの内容も、体いっぱいに情報を浴びて、それを言葉として表現するという豊かさへ通じない飢餓状態の内面に危機を覚えます。やはり自分の中に自分が二人いて、いざというときにこれまで自分を守ってきた悪い自分が出てきて、ちゃかしたり、内面の自分の丁寧に大切にしてきたものを台無しにしたりします。だから自分自身を危険な存在だと思うのです。自意識過剰な面はあれども、浮き彫りになっていることは解決できる時であることに、感謝致します。

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