差別発言について
おそらく森さんは、なぜ性差別がいけないのか、それほど大騒ぎになるほどの問題発言をしたのか、分っていないのだと思う。「女性がいる理事会は時間がかかる。」がなぜ女性差別なのか、かれは「事実」の感想を口にしただけなのだろう。そこには、「男性は会議に時間をかけない。」とか、「女性は余計なことばかり話す。」とかいう、あきらか事実誤認のステレオタイプの物言いが身についてしまっていて、そういう言葉でしか思考も進まないし、行動も出きないのだと思う。だから許してやれとか、辞任したのだから責任を果たしたとかは、毛頭思わないけれど、あらためて、「言葉」の不自由さを思ってしまう。
7万年前の「認知革命」によって、人類は「虚構の言語」を手にし、「社会関係」「人権」といった概念と歴史と文化を構成していったわけだが、そもそも「嘘の言葉」で「真実」を伝え、表現していかなければならない大変さを、あまり認識しないで暮らしている。
すなわち、個別には目を向けず、見た目や性別、国籍といった表面的な特徴で分類し、ステレオタイプに当てはめた言語生活を送っているのだ。やはり、「言葉の学び」が必要だ。
子どものとき、ちょっと丁寧にご飯をよそってやっただけで、「お前、おかまか」と言われたことがあるし、「男の子だから、そんなことはしてはいけない。」と何度も言われた。しかし、わたしも女性は感情的でかなわないと思っているし、「女子高の教師はやりにくい。」と考えてきた。教員室で大きな声で感情爆発させているのは、男性教師だし、女性の教師の方が「男子校はやりやすい」と言っている事実を目にしながら。「森発言問題」を他山の石にしなければと思う。
――つまり、すべての発言は、ステレオタイプだし、差別があるようにも思うのだ。でも、言葉遣いについての「理論言語学」は、あまり「国語教育」に反映されていない。そういう視野を持った国語教育を、これから展開していかねばと改めて思った。