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娘からの手紙とお守り


 平成24年3月、A副会長を批判する手紙がA副会長の自宅に届いた。5月に、会長から私に親戚のおじを通して「懲戒解雇」といわれた。もちろん私はそんなもの出していない。その後、6月に筆跡鑑定が行われ私の筆跡であるという結果が出たとのことだった。急に7月に父が他界した。亡くなる直前お前がそんなことするわけはないだろうと、強く言い残していった。その後の49日前日の準備で、私は後ろから車に追突され交通事故にあった。秋には、調査委員ができ担当の副会長から、君がやったのか、といわれたので、私はやってません、と答えた。副会長は、では誰がやったのか、と聞いてきたので、それを調べるのがあなたたちの仕事ではないですか、と答えた。
 このことで、家族関係はもとより親戚関係はぐちゃぐちゃになり、もちろん職員の中でもひどい扱いをうけるようになった。
 何も話してはいませんが、異常を察知した幼い子供にも心配をかけました。当時小学校6年生の娘は、パパ前向きに生きていればいいことがあるよ、という手紙と手作りのお守りを枕元においてくれました。お守りはいまも持ち歩いています。ちょっと別の才能をもっている妻からは、この際、かたっぱしから闇を一掃しなさい、といわれました。このことを講座でお話すると、いだきしん先生からは、奥さん凄い、すぐに弁護士をつけるよう等、都度大切なアドバイスをたくさんいただきました。
 翌年3月14日の忙しい時期に、町長選出馬を予定しているのB副会長が私のところに来ました。B副会長の懇意にしている日本で3本指に入る弁護士が、この件会が負ける、と話したそうで、自分は選挙前に汚れるわけにはいかない、騒ぎ立てずに静かにしていてほしいと、私に口封じにきました。そのB副会長は、その年の12月に急遽肺がんがみつかり3か月位で亡くなりました。
 私は、翌年5月に別団体に5年間出向となり、別団体の業務のほかに、メインは、なぜかもといた会の業務を1人ですることとなった。ここでは、所詮1人なので、別団体の業務と連携しながらもとの業務を遂行できるあたらしい2つの統合されたシステムを創り、稼働をはじめたところ、これが、今までの根幹の問題点を凌駕する仕組みで、思いもよらず量産体制ができあがった。そう聞くと、なんだと思うかもしれないが、このシステムを創り稼働するまでは、下手人として会議ではさんざんつるしあげられる毎日であった。ピンチがあみ出した産物なのだろうか。
 翌年、5年いるはずの別団体から、もとの会に戻るよういわれた。双方の責任者に、①なぜ出向なのか、②はたらきがよかったから1年で戻るのか、③つかえなかったから1年で戻るのか、もとの会にどのつらさげて戻ればいいのか教えて欲しいと、くってかかったが、だんまりであった。
 このあとも法的根拠もなく始末書をかかされたりと、いろいろあったが、A副会長は酸素ボンベをひきずる生活をしたあと、入院しチューブでぐるぐるまきの状態と聞いていました。この段階でA副会長の事業は、心のやさしいご子息が引き継いだのですが、ご子息は、平成30年の3月にすい臓がんでお亡くなりになりました。40代で妻子がありました。A副会長は、葬儀の時だけ、病院からぬけだして息子を見送ったと聞きております。従って、また、病院にいるA副会長本人が事業を引き継ぐこととなりました。
 それから、2年が経過し、令和2年3月2日、私が記帳関係の業務をしているときに、A副会長の従業員が記帳関係の書類を提出に来ました。いろいろ経緯を知っている仲間の職員は、おもしろがって私を接客担当者にしました。業務をしていると、その時、亡くなったご子息が、私の左上で、父に謝らせます、とメッセージを2回ほど言いました。私は、えーあなたは死んでいるのではないか、と心のなかでいいました。気のせいかとも思いました。
 ですがなんと、いよいよ、その3月下旬にA副会長が逝去すると、その言葉の通り、私の右側で土下座をしているのを感じました。通夜2時間前、告別式2時間前には葬儀会館へ戻る始末でしたが・・・。私は、A副会長が亡くなった日と荼毘の時間は苦しくなり身動きが取れない状態でした。結果、告別式の日には朝から起き上がることができず、1日お休みをいただきました。

 昨年は、多くの会員さんが辞めるだけでなく、1割以上の職員が辞めました。職場は大混乱です。今の副会長からは、とうとう年末に、なぜこういうことが起きているのか真実を教えて欲しいといわれました。私はその後も、性懲りもなくさんざん、お困りを見つけては企画し提案し改善、ないものは創ってきましたが、根拠もなくいじめぬいて・処分して・塩づけにした職員から真実を聞きたいというのは、かなり矛盾していると感じています。ものには順序もあると思います。極論、指示した結果がこれで、原因は、外にはなく内側(そうなる指示)、ではないかと思う。さらに、このことばかりは私の業務ではないし、わたしは、ここのおかあさんでもありません、といったところです。正直、この場におよんで、自分のけつがふけません、としか聞こえません。
 いまのエリアにとどまらず、いきた記帳をとおして個人事業者がどんどん成長していけば日本も変わるのではないかと思います。今はネットもあります。他の地域のところと業連携や提携をして進めることも可能です。そうしてあつめた生の記帳教育の仕方やその結果の経営の成長ストーリー(失敗談というようなことですら有用)をAIにぶちこむことで、いまある個人事業者のさらなるつかみのヒントになるのはもちろん、これから創業する皆様のいきた経営・経理のテキストたりうるのではないかと考えています。いまは、どんどん私に蓄積されるばかりです。

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