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受け


本来、日本の剣法には受けるという手は無い。そうなんだ。ほぼほぼ受けることしかしない私は、その時点で大きく外れる。同じ三鷹だけど昨日と今日(すでに一昨日と昨日。一昨日を昨日、昨日を今日と表現させていただいてます。)でまるで違う演奏だということくらいは、わかる。今日の1部も2部も、腰回りと背中がダルくなり、戦いの奥義のときもこんな感じだったなと思いだし、あの薄い本も旅が続く中どこへいっただろうとハッとする、、、

11日は高麗さんの書き込みとコンサートメッセージを拝読してやっと、このあたりの感じがとても足りていないこと、よくわかる。このあたりの感じというのは、まさに、『死中に活を求める』。10日はすごすぎて簡単には言葉に出来ない、と口を結んでしまったが、11日は、あまりに焦点がぼやけて、一人だと何も表現のしようがなかった。

日常を生きること、ひとつひとつが訓練だと思うんです。でも、言い訳は出来ませんが、それを疎かにして、その日暮らし、毎日負けっぱなしの20代が尾を引き、テンポよく一つ一つ倒していくはずの敵に逆に全部やられて倒れっぱなし、むしろよく、いのちだけはあったねと。

日本の時代劇のチャンバラの場面の、受けてから切る人って、ものすごくイメージできるんですが、あのイメージがこれまでの自分の生き方なんです。自分にも領土があるのにわざわざ人のところを侵略して倒していく意味も気持ちもさっぱりわからなくて(これが今もわからないんですが、わかる人が私に対して『わかる!』と語る場面は現実的になかなか訪れないので、いまだになかなか共感できないのです。なんだかぼんやりしているし無防備だから腹立つとか、そういう感じか?とは想像します。)、やられるから、ああ仕方ない、戦うか、と。でもそれじゃあ遅いというか、敵がくることは内面をわかれば自ずとわかるので向かうことになり、切られてから切るのでは遅いということなんだな。それができないから侵略されたんだ。いや、違う話かもしれない。けど自分が遅いのはよくわかります。

誰かを侵すために腕を磨くのではなく、高句麗が強かったように、真理なのだなと。

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比叡山 お茶室より
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仙台高麗屋にて-2