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リベラリストとして


やっと夙川河畔の桜が開花し出した。空があまりにも朗々としだしたので、本を置き、ちょっと外出しようと家を出たのであるが、あまりに気持ちがいいので、ベンチに腰掛けて日光浴を楽しむ。幸せそのもの! 心配ばかりする、例の小心者の自分は、心の奥の方でなりを潜めている。

「晴れ晴れとした心や、みずみずしい感性や、正直で清らかな情熱を保っている夫人」とブリヘーリヤ(ラスコーニコフの母親)のことを描写しているドストエフスキー(『罪と罰』)。わたしもそうありたいと思う。

丸山眞男を読んでるからかもしれないが、つくづく「リベラリスト」でありたいと思う。「~~からの自由」でなく「~~への自由」を実践して、明朗に健全に情熱的に生きていきたいもの。

学生時代から、「お前には思想がない。」とよく言われた。プチブルの我が家で「思想」と言えば、共産主義思想のことであり、それはいけないことのように思わされてきたが、安保闘争や学生運動の中で、どうしても社会主義的志向になっていった。平和を守るために、平等を貫くために、差別をなくすために、マルクス主義を知らねばならなかった。しかし、「資本論」は読めなかったし、左翼運動にはなじめないものがった。「平和行進」にも、デモにも参加したが、その党派的な教条主義にうんざりした。アリバイ作りのような発散、自己満足にすぎないと思った。被害者意識も鼻についた。さりとて功利主義も虚無主義も、なにか求めるものとはかけ離れていた。また、瞑想やヨガ思想も、どうも宗教的な感じが付いて回って敬遠していた。実存哲学も脱構造主義も納得はするものの、高等過ぎて、だからどう、といつも思っていた。頭がついていかなかったのだろう。

思想がなくても生きていけるだろうが、自分の思いはクリアにしたい。だから「リベラリスト」を標榜したい。多分、日本古来の思想も、自然の中で、命を共鳴共感しながら、自由に生きようという意志ではなかったか。「神ながらの道」というのか。しかし、それは「神道」になって、規範と否定を強いるもの以前の、という意味で。また、「陽明主義」の“知行統一”のような理詰めでなく、言葉を越えた存在へ向かう、という意味で。(今ごろになって、なにを青臭いことを言っているのかとも思うが、春の陽光の中で、すっかり若返ったのだ。)3/29

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