ノンペダルの音に、生命のはたらきを聴く
ノンペダルでのコンサートが始まり、その音の威力に驚いています。
これまで、いだきしん先生の音は、サステインペダルを踏まれながら、あり得ないほどの倍音を響かせ、通常であれば不協和音とされるような音の並びまでも、見事に調和し、光となる圧倒的な音でした。
長年、あの「いだきしんサウンド」がなぜ展開するのか、私にはわからず、ただ「奇跡」という言葉で括るよりありませんでした。
けれど、ノンペダルでの演奏に触れ、ひとつの謎が解けたように感じています。
先生の一音一音は、真に個性的でした。
同じ演奏者が弾いておられるとは思えないほど、一音ごとにまったく違う色があり、質があり、はたらきがあります。これほどまでに一音一音が違っていたことに、私はこれまで気づけずにいました。
小さな音は、ただ小さいのではありません。
ピアニッシシモの一音を、イメージ通りに鳴らそうと、音大生は一日何時間もピアノに向かいます。大きな音を鳴らすよりも、むしろ小さな音を響かせる方が難しいことは、少しでも音楽に触れた者であれば知っています。
しかし、先生の小さな音は、技術で制御された小ささではありません。
まるで神様が宿るように、色とりどりの音が連続してあらわれます。
一音でありながら、一音ではない。
静かでありながら、限りなく豊かです。
そして、大きな音もまた、圧倒的です。
直球のように、真っ直ぐ身体へ飛び込んでくる音。
避けようもなく、言い訳もできず、生命の中心を打たれるような音。
その一音に触れた瞬間、内側で滞っていたものが動き、曇っていたものが晴れ、身体の奥で何かが正されていきます。
「効き目がある」と言いたくなります。
小さな音にも、大きな音にも、先生の音には、身体に直接はたらきかける力があります。
仙台コンサートの時、そのことが見えるようにわかりました。
先生が何かを意図して音を出しておられるのではなく、きっと高麗恵子さんが「全体」とおっしゃるそのままに、参加者、自然、宇宙と呼応し、そのまま音となっていく。
先生のお身体を通して、すべてが治癒していく。
その場にいる一人ひとりの身体は違います。
受け取る音も、反応も、起こる変化も違います。
耳に届く音。
皮膚に触れる音。
胸に響く音。
内臓が反応する音。
骨にまで伝わる音。
細胞すら意識できるほどです。
身体は、意識よりも先に応答します。
その応答を、先生がそのままキャッチしてくださり、また次の音となる。
会場全体が呼応し、自然が呼応し、宇宙が呼応し、見えないはたらきまでもが動き出す。
その連続が、二時間のコンサートの中で起こります。
先生のことがわかる、ということは、先生を外側から理解することではありません。
先生の音に触れ、先生の存在に抱かれ、先生のおはたらきの中にある時、自分の身体がどう反応しているのか、自分の内に何が起こっているのかが、ありありとわかってきます。
観察することなく、ただ身を任せられる幸せは、かけがえのないことです。
それまで気づけなかった緊張。
自分では当たり前になっていた歪み。
言葉になる以前に閉じ込めていた悲しみ。
知らないうちに諦めていた生命の要求。
先生の音は、それらを責めることなく、暴くのでもなく、生命の深いところに届きます。
すると、隠れていた自分の状態が明らかになるだけではなく、曇りが晴れるように、歪みがほどけるように、そこにあった重さや滞りが、音の中で解けていきます。
自分で直そうとしても直せなかったもの。
考えても解けなかったもの。
言葉にしても届かなかったところ。
そこへ先生の音が届くと、生命は自ずと反応し、本来のはたらきを取り戻していきます。
だから、先生のことがわかってくるほど、自分のことがわかってくるのです。
先生を理解することと、自分を知ることは、別々のことではありません。
先生の音に出会うことで、自分の生命が反応し、その反応によって、本当の自分があらわれてきます。
そして、あらわれた瞬間、余計なものは光に溶けるように消え、本来の生命がそのままあらわれてくるように感じます。
たった一度のコンサートで心身の不調が改善される所以を、私は何かしらの形で表現したいと考えるようになりました。
もちろん、医学的な言葉で軽々しく説明できることではありません。
けれど、身体が変わる経験はあります。
呼吸が変わる。
内側の緊張がほどける。
止まっていたものが動き始める。
意識が澄んでいく。
自分の生命が、唯一無二のいのちとして戻ってくる。
先生が根気よく伝えてくださっている「身体を取り戻す」こと。
それは、個人の健康という小さな範囲にとどまらず、地球の危機を救うためにも、最優先の課題であると考えます。
ここでの経験は、単なる感動ではありません。
生命の反応です。
古来、人は音によって癒されていたと聞いています。
祈り。
声。
笛。
太鼓。
弦の響き。
言葉になる以前の「音」は、人類にとってどれほど重要なものであったのでしょうか。
人は、音によって空間を整え、生命を取り戻してきたのではないでしょうか。
その意味で、先生の音は、近代以降の「音楽」という枠には収まりません。
クラシックの様式、和声、譜面、演奏技術だけで測れるものではありません。
LIVE配信での経験と、会場での経験には、雲泥の差があります。
配信では、耳と、一定のイメージの中で音を受け取ります。
しかし会場では、音は空気を震わせ、身体を通り、意識よりも先に生命へ届きます。
無条件に、無意識に、全身が反応します。
ノンペダルの音をダイレクトに全身で受け取った身体は、まるで超自然と交流を始めたように、変化を増幅していきます。
一回目、二回目、そして今日は三回目。
しかも、パイプオルガンのあるホールでのコンサートです。
今日もまた、歴史的なコンサートと考えます。
二十年ほど前までは、音大生は先生のコンサートを愉しむことが難しかったように感じます。
空間も違っていたのでしょうが、音大生は音を聴くと、自動的に譜面へ変換してしまいます。
音そのものを聴く前に、頭が分析を始めてしまうのです。
私は幸いにも絶対音感がなかったため、先生の音を、初めから響きとして聴くことができました。
幼い頃に本来ある能力を潰してしまい、潰された人によって、クラシックという音楽が広まっていくことは悲しいことです。中に「天才」と呼ばれる人々が活躍されたことで、人類の歴史もなんとか保たれてきたのかもしれません。
かつて、先生の音楽を批判する人に言いました。
「私たちが習ったクラシックとは、たった数百年ほどの範囲のことでしょう。その範疇に、先生の音楽が収まるはずがありません。先生は、人類の起源、言葉、音、生命について、誰よりも深く探究されているのです」と。
反論する人は、誰一人いませんでした。
最初は先生の音楽を愉しめなかった今は亡き父も、京都コンサートホールへ何度も足を運ばせていただくうちに、ある時、心から「今日はよかった」と告げました。
本当に感動していました。
父と感動を共有できたことは、今では宝物のような想い出で、思い出しただけでも涙溢れます。
先生の音は、外から聴く音ではありません。
身体の内で鳴り始める音。
説明される音ではなく、生命が直接受け取る音です。
小さな一音にも、直球のような大きな一音にも、生命を目覚めさせ、整え、未来へ向かわせるはたらきがあると感謝が絶えません。
先生のことがわかるほど、自分のことがわかってくる。
自分のことがわかるほど、余計な曇りや歪みは解け、生命は本来の光を取り戻していく。
今日のコンサートが、また新たなスタートとなる予感でいっぱいです。
ノンペダルの音に、私は、人類の未来だけではなく、生命の起源を聴き、地球も人類も癒されていくことに畏怖を感じています。
