コンサートを体験して
少し早く北山駅に着いたので、植物園の外周を鴨川沿いに歩いてから行く。梅雨空の下の河畔と、木々の緑が体になじみ気持ち良かった。コンサート・ホールの前で知人に会い、連れてきた男の子を紹介される。その子が、「貫禄がある!」と言ってくれた。そう、期待と自信にあふれていた。
ところが、メッセージが全く異次元のもので、メモも執り切れず、「どのようにしても生き抜くのです。」だけが耳に残った。いつもそうではあるが、全く違う音と響きで、新しい雰囲気で、無類の優しさと力のようなものが伝わってくる。体が安心すると、頭が、古い過去を引きずった頭が元気になる。
混乱する世の中、困窮する人々、金や仕事の心配、病気や老いの不安、性的な悩み(高麗先生の言う「世俗的な」こと)ばかりが懸案になり、その解決にしか目がいかなくなる。「どうしてキリストが十字架にかけられなければならなかったのか」の問題が解けない。その人の前に出ると、自分の罪や欠点、醜悪がすっかりあぶりだされて(そう今のわたしだ……。)しまうとしても、わたしなら、その人を死に追いやらないであろう。ひとは、それほど何もなくなってしまうことがいやなのか。(わたしも無一物は、生きていけそうもないので怖い。)だから、とりあえず、今だけ、救済されればいいのだろうか。しかし、それはあまりにも身勝手で罪深いことと思ってしまう。――そんなことを頭が考え出し、とても「貫禄」なんて保てなくなってしまう。ぼうっとして、椅子に深く沈んでしまう。
第二部が追い打ちを掛ける。「膨張する宇宙」「不確定な素粒子の発見」「何を感じ、何を考えましょう。」と問われても、戸惑うばかり。浅はかな期待と自信なんて吹っ飛んでしまった。ヘーゲルを読む気力もない、余裕もない。ただ、体だけはニヤニヤ笑っている。イダキシン先生が死線を越え復活されたことで、もう安心してしまっている体たらくだ。いや、どれだけ困窮しても、歩み続けようという気力というか自信のようなものはあることは確か。少し怒ったみたいな顔をして、雨上がりの帰途を急いだ。
安心と混乱――これが素直な感想だ。そして、コンサートを開いてくださり、お目に掛かれる機会を作って下さったことへの感謝!こうして書くことによって、生き延びていこうと思っています。(6/24)