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イエス様の「死について」


イエス様の死をどう捉えるかについては、いだきしん先生が少年の頃から会いたかった方ということをお聞きした随分前から、また実際に先生が会われてからのことに遡りますが、先生の「いだき」の全て、「社会学序説 ジェンダーを巡って」、「存在論」、そして「死について」のご講演、当然、全てのコンサートの根底にある「愛」を真にわかる上で最もわかりたい大テーマでした。まさかまさかの展開で遂に先生ご自身のお言葉でお聞きでき、いだきの真髄、神髄に触れ感動の盛岡の夜でした。が、意外と冷静な自分を感じ、真の愛への道はまだまだ遠いともわかる夜でした。いつか先生に直球でお聞きしたいと考えてきましたが、やはりその場は東北でした。

随分前から私(たち)は十字架にかかったイエス様を見殺しにした人間たちの子孫であることを自覚していました。そのことは先生から何度かお聞きしました。ところが、今年になって人間を支配してきた存在、世の中的には荒唐無稽な話ではあるけれど、その様な存在が確かにあると いだきしん先生からお聞きし、かつて没入していた荒唐無稽な話を再度見直してきました。そこからは、やはりあらためてヤハウェという神の存在、ヤハウェとイエス様との関係性について疑問が深まっていました。イエス様の死によって人間を支配しやすくした存在がいたとしたら、・・先生がこのところ次第に明かしてくださってきたお話やコンサートメッセージをしっかりと読み込んでいくと、マグダナのマリアの存在、一番の弟子といわれるペテロなど男の弟子たちの行動などに重要な隠されたものがあると感じていました。調べたところで、どこまで考えても結局わからないことばかりですが、とことん考えてから質問することをし始めてからこの疑問の答えへの歩みは進みました。先生との対話を通して「自分でわかる」新しい道、いだきの「主体性」への道が見えてきました。

昨日は質問に答えていただく中で、天之御中主尊とヤハウェの違い、西欧文化と日本文化の違い、聖書と古事記、神と人間の関係性の違いがわかっていきました。「大和の神々はやさしいのです」とかつて先生がメッセージに読まれたように日本の神は敵さえも受け入れて融合するようにあり、光満つる「あたらしい いのち」はまさに日本の神々を超えて「あたらしいはたらき」をされる存在です。撮影旅行で同行させていただいたシナイ山で先生が遭われた存在はヤハウェかどうか私にはわかりませんが、モーゼの神、ヤハウェは契約の神とはいえ、私には恐怖によって人間の支配をよりしやすくするはたらきをした存在としか感じられません。あの時のシナイ山での先生のご様子からしてもその様な存在に遭われたとの印象が強く残っています。

しかし、最も知りたいのは十字架に敢えてかかったとしか思えないイエス様の行動の背景でした。先生からお答えいただけるかどうかわかりませんでしたが、先生ご自身がその疑問を探究されてこられたことをお聞きでき、若きイエス様の十字架の死がその後の世界を大きく変えてしまったとのお答えを聞けて、大きな疑問を持っていた私の仮説は間違ってなかったと感じました。私には元々キリスト教についての若い頃の原体験というものが一切なく、先生のご経験をお聞きすることから考えることがはじまりました。昨夜はイエス様の死について、とても長い時間をお聞きしていたように思えますが、先生のお話は結局、私たちは日本人であることを忘れている、失ってしまっていることに目覚め、日本人であることを取り戻すことを丁寧に紐解いていただいたのだと考えます。

神と神の子といわれるイエス様、そして人間の関係性に大きく踏み込むことになった貴重な先生との対話の時間に感謝致します。天生についても9月の仙台の講座でお聞きしてから約2ヶ月になります。イエス様の死についてを考えることで天生について、そして愛について深く「知る」貴重な時を経験できました。「本当に知ること」は「行うこと」ならば、やっと愛を知ることから行うことへの入り口に辿り着いた大転換の夜でした。やはり愛のど真ん中にある体に変わるより今後のやるべきことはないと確信しました。いつも尊い経験の場と自分で考えるための多くのヒントをいただきまして心よりありがとうございます。

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