KEIKO KOMA Webサロン

できごと


いままでのことをかきだしてみました。

1 日比野君モデルを大量生産するには

 私は学生時代家庭教師のアルバイトをしていました。近所に住む日比野君は、中学3年の12月に数学が35番なのでお願いしますと、申し込みがありました。はい、わかりましたとお受けして2か月後の翌年2月に実施したテストではクラスで5番になっていました。3月に中学を卒業し、4月に高校に入学して最初のテストで数学が学年1番になりました。それからというもの本人はもとよりお母様も物事に向かう姿勢がかわってきたことを感じました。他にも、文系しかいけないと思っていた子が思いもよらず理系に行くことができたりと、本人の予想を超える感じでした。当時私は、私の命を燃やして人が1ミリでもあがっていけば私の命の使い方としては間違ってはいないのではないかと感じていました。死は生をよくいきるためのもの、存在は人をおしあげるためのものではないかと考えていました。
 私は、小学校高学年頃になると、あっちでやるよりこっちの方がいいのではないかと思うようなことが多くなりました。あっちというのは、学校は生活態度をも含めて内申等の評価を記入するであろうからいわゆる真面目な学生をすることや自分は極力遠慮して人を尊重するかたちで優先するということなどです。こっちというのは、自分で合理的だなと思ったやりかたであったりなんとなく右上の空間に浮かんできたことです。美術などは介入されることがないので比較的こっちで作品をつくれるので集中して独創的な作品をつくることができます。勉強も、自宅でできるので、自分で考えてこっちのやりかた、つまり素振りを中心とした泥臭いやりかたで進めていました。大手をふって、こっちのやりかたで生活できないものかと思っていました。ですがそうこうするうちに、だんだん、体がきつくなってきました。簡単にいうとアクセルとブレーキを両方踏んで進むような感じになってきていたからです。高校に入ると、数学Ⅰで解の公式というものを学びました。それを使うと問題が解けていくのです。私は、数学で解の公式があるのだから人生にも解の公式があるのではないかと考え、高校の3年間は数学Ⅰばかりをやっていました。やり方は、こっち。この問題は本当は何を問うているのか、からはじまり、試験で記憶がなくなった場合に解の公式本体を即座に組み立てられるようにしておくとか、良問をひたすら何回も解くことによって見えてくるものはないのかというやりかたでした。大学は、浪人時代の夏休みにたまたま予備校で追加受講した小島先生の台数幾何の教え方に感動してそればかりやっていたところ、たまたま入試で全く同じ問題が出たおかげで大学に入れたようなものです。日比野君の出来事は小さいことではありましたが、生徒はむしろ無限の可能性をもっていて教える側の問題ではないかということに対する貴重な経験となりました。そしてこういうことをこれからどう大量生産するのかということを常に考えていました。
 さらにそのころもう一つ考えていたことがありました。例えば就職後、部下の教育がうまい上司に会えば、部下が困る前に困らないように教育し、それにより部下が成長しお客様が満足し、会社に利益をもたらし、ひいては上司や部下の給料や立場が上がっていく場合。そうでない上司の場合は、ただ作業としての業務をあてがい、結果が出ない場合は部下が悪いと上に報告するスタイルです。このような上司のもとで自分の命を燃やすのは人生を棒にふるようなものだと感じていました。ましてや、あっちとこっちの「こっち」の事を話しても理解不能と思われます。ですので、私は、大学と専門学校と並行し、資格をとり独立する方向でやってはみましたが、今思えば、すでにからだが思うようにはいかなかったのでした。今のあっちとこっちだけでなく、将来のあっちとこっちの対策をする、つまり、将来の本音を実現するために今を我慢するような状態が長く続いたからかもしれません。一旦、けじめをつけえて卒業し、測量業務のアルバイト等体をつかう毎日を過ごしていました。そのうち、ちゃんと就職したらと、世話を焼いてくれるおばさんがやってきて、就職をすることとなりました。その会社では、やはり上司が仕事をうまく指導できないでいて、いらいらしているばかりでした。しかし、1年経過すると、私が全部を経験しそのエッセンスをまとめ整理することで、むしろ今までよりも効率的な業務となります。次の担当に引き継ぎするときもマニュアルがきちんとしていればそのポイントをお話すればいいのでスムーズです。最初に勤めた会社は、小さな企業でしたので、職員が100名程度いるこれから成長しそうな会社に行きました。その会社はその後確かに、名実ともに業界の中で日本一になりました。そこでも最初は同じように全部経験するしかないのですが、そのエッセンスをまとめ「こっち」を盛り込んだ企画をしたり営業をしたりマニュアルをつくったりと10年近く細々とやっておりました。ところが、平成19年11月に、日本でナンバー1までにのぼりつめた会社の親分は、ある投書により失脚してしまいました。私は、平成20年の4月、天下りの役員が入ってきた会社で、今後、なにを基準にどういきていくのかを悩んでいました。正直、富士山の樹海を走ってでも自分を変える研修はないものかと考えていました。大学で学んだ経営学はお勉強で、勉強したからといって、会社での仕事がうまくいくとか、人生全般の生き方に直接役立つというのではなく、そもそも成っていくという感じがないのです。そんな時妻が、この講座申込んでお金もはらっておいたから行ってきなよ、開催曜日もあなたの会社の休みと一緒だから・・・と言われました。そのころ、毎朝私の出がけに、妻がピアノの音楽を聴いていましたが、私は毎日それを止めていました。妻はそれについて何も申しておりませんでした。どうして妻は私の心が読めるのであろうと思いましたが、とにかく妻の言う通り行ってみようと行動したのが、いだきとの出会いです。今は、率先して豊かに生き、愛を味わい経験し愛を実現して生きていきたいと思っています。

2 風をたよりに

 平成26年の4月の第3週の5日間、会社が提携している共済の職員である尾崎さんから、事前に共済の切替時期のお客様に通知を出すので一緒に同行訪問をして欲しいといわれ、その週の月曜日を迎えました。月曜日の朝尾崎さんは、開口一番、事務が渋滞し切替時期のお客様への通知は出せなかったといいます。私は、仕事をやりくりしてこの週を空けましたが、茫然としながら、この職員は何を考えているのだろう、本当に共済を販売する気があるのかなあと思いつつ、どうしたらよいのか頭の中で考えていました。
 最初に浮かんだのは遠く離れた町のファミリーマートでした。意味は分かりませんがとにかく車を飛ばしてそこまでいきました。母と娘で2店舗をきりもりしており、お母様が出てこられて、あら今日は何をやっているんですかと聞かれました。私は隣の尾崎さんを紹介して、共済を販売しているのです、と答えました。お母様は、あらちょうど孫が生まれたので2口入りますよと即決されお申込みなさいました。手続き後、また、すぐに元の地元にもどってきました。午後も、どうしようかと考えていると、隣町の大工さんの奥様が浮かんだので、電話をしてみました。その奥様は、あるDIYまで歩いて買物に来たけれど帰りは歩くのがつらいから、いまいるDIYまで迎えに来てちょうだい、ということでした。すぐにDIYでおちあい、奥様を家まで送り届ける途中、奥様は、今日は何をやっているのですかと聞かれ、共済を販売していますと答えました。家に着くと、奥様は娘がフリーターで健康診断などの機会はなく自ら受診しても割引制度などもない状態で困っていたので加入しますということになりました。また、追加で今の保険を確認後、ご主人の分も検討していただけることとなりました。翌日の火曜日の朝、尾崎さんは、おはようございます、今日も海が割れますかねえといいます。私は、無我夢中でやっているので、そんなのわかんないよ、と答えます。ところが、近くのショッピングモールの漬物屋さんが頭に浮かんだので、10時の開店と同時に行きました。私は、お仕事のお邪魔をするといけないので、端的に、高校生のお嬢様は共済にご加入になりませんか、と尋ねました。漬物屋さんは、ああいいよ、と答えご加入いただけることとなりました。後で聞いたところ、漬物屋さんのお母様は明治生命をやってらっしゃるとのことで、私も驚きました。そのショッピングモールを出たときに、2つ隣の町で鉄筋工をやっている奥様が頭に浮かんだので、電話をしてみました。中古住宅を購入したと言っておられたので、一度拝見したかったからです。奥様に電話をして、おうちの住み心地はどうですかなどと聞いていると、今は何をやっているのですかと、聞かれました。私は、共済販売をお手伝いしているのですが、行先がなくて困っているのです、と返事をしました。すると、その奥様がびっくりして、こうお話になりました。今朝、旦那と会社員をしている娘と3人で食事をしているときに、奥様が娘に共済の1つもはいったらどうなのと話したばかりだというのです。結局、夕方お宅を拝見しながら会社から帰った娘さんにご加入いただくことができました。翌日の水曜日の朝も、尾崎さんは、今日も海がわれますかねえ、と聞きます。火曜日から最終日の金曜日まで、朝の挨拶は毎日同じです。仕方なないので、右手の人差し指につばをつけて、指を上にあげて風を感じてみます。結構遠いですが行ってみますか、と車を飛ばして美容院に着きました。そこの女性オーナーから、今日は何をやっているのと聞かれました。私は、共済販売を答えると、その女性オーナーは、なんで私が保険や共済に1個も入っていないのがわかったのと聞かれました。私は、そんなこと知るわけがないじゃあありませんか、と返事をしました。結局、オプションも含めてご加入いただけました。お昼ご飯は、鶏ガラと塩で渾身の汁を開発したラーメン屋さんに尾崎さんと行きました。おやじさんは、私に何をやってんの、と聞きます。共済販売と答えると、加入したいということになりましたが、おやじさんが最近交通事故にあっているので1年経過しないと加入は難しいということでした。
 こんな風に頭に浮かんだところを次々行くしかない5日間でした。イメージしやすく簡単に申しますと、24件のアプローチをして23口のご成約をいただきました。成約のなかった1件は、私が通う美容室のマスターの娘さんにどうですかとお話ししましたところ、娘は学校関係で共済に2つぐらい加入しているので間に合っていると言われました。はっきり言われたのは、この1件だけでしたので、正直私の力もこれまでか、と思っておりました。 その年の7月の第3日曜日の朝8時に私の携帯に電話がかかってきました。共済の成約のなかった美容室のマスターからで、マスターは頭の後ろに4センチの「がん」がみつかり、現在大きな病院に入院しており、月末には手術を行うということでした。その主治医が言うには、あんたが「がん」なら娘さんも半分以上「がん」になる可能性があるといわれて、いてもたってもいられず、病院から私に電話をした、ということでした。尾崎さんに連絡して、休み明けにすぐに娘さんのご加入手続きをしました。その後すぐに、娘さんは、お父様の手術の数日前に、ガラスを踏んでお父さんと同じ病院で手術を受けることになりました。その共済は、加入後1か月しないと支払いがないのですが、特例として30%の支払いがあったそうです。さらに、娘さんは手術後1週間しても歩けなかったのでよく調べたところ、まだガラスが足に残っていて神経を圧迫していて、再度手術を受けたそうです。あの時、娘さんの共済にご加入いただけていたら・・・、魔除けになったのかもと考えてしまいます。

  コンビニの母と娘はある時ピンチが訪れました。駅前から100メートルのところにある自分のお店と同じ種類のお店が、駅から50メートルのところに開店した時です。日に日に売上が減少していきました。加えて、結婚式はしない約束の娘さんが急に結婚式をすることとなり150万円が必要とのことでした。私は、A案約150万円、B案約150万円、C案約150万円の3つの案をお話ししました。お母様は、3つともトライをして3案とも実行できる状態でした。その時、昔お店で働いていた従業員で店長クラスの人から電話がかかってきて、再度お母さんと娘さんのもとで働きたいとのことでした。その翌日にはコンビニの本部から電話がかかってきて、駅とは反対側の国道をはさんだ住宅街にある店舗が空くのでやらないかということでした。必要な資金は150万円とのことでした。人・金・物・情報がいっきにあつまりました。結婚式も無事におわり、2店舗目も開店することとなりました。1店舗目が、おでんの販売を400個、800個、1200個と成績を伸ばすと、2店舗目も刺激され住宅街ならではのものを販売しお店同士で競争しあうようになりました。とうとうその種類のコンビニの日本でトップ20店の表彰を受けるまでになりました。
 漬物屋さんは、当初カードでの借入が200万円ありました。金利が17%でした。なかなか元金の返済までまわらない様子でした。政府系金融機関をご案内し借換をされ金利は3%となりました。今までとの金利の差額分を、あるものにシフトしたところ、支払いが貯金になり税金が節税でき、生きたお金になりました。
 鉄筋工の奥様は、ある基本的なことをしっかりできるようになったところ、借入が3本もありましたが2年間で清算ができました。この奥様のすごいところは、ここで手を抜かずに今まで支払っていた分を今度は何か別のものに活用できないものかということで、あるものにシフトしたところ貯金・節税・補助金という流れに入りました。貯金・節税・補助金なのですから、さらに余力がうまれるサイクルとなり、他にお金を活かす手段は何かないのか検討されていました。たまたま、まだ5年しか経過しておらず、支払いができなくなった方の新品に近い状態の土地付一軒家が中古物件として半額で売りに出ていたものを運よく購入されたということです。その住宅の庭には物置もあり菜園もあり、今まで借りていた家賃・物置代・菜園利用料よりも安く済む状態になったとのことでした。なので、私は内心、本当は、また、次にお金を有効に使える方法を教えてくれといわれたら、どうしようと考えていたところでした。
 美容室の女性オーナーについてはこんな後日談があります。あるとき、総スタッフ5名で美容室をやっている男性オーナーと一緒にコーヒーを飲んでいました。男性オーナーは10月にスタッフの1人が辞め、今月11月の今日2人目が辞めるので、今後どうやってお客様を対応していくのか悩んでいました。その時、私は美容室の女性オーナーのことが浮かび、電話をしてみました。すみませんが、週1回お宅の美容室がお休みの日に男性オーナーのお店をアルバイトで助けてもらえませんか、と話してみました。その女性オーナーは、びっくりして、不動産屋さんだけにしか言ってないことをなんで知っているのですか、と聞きます。つまり、その女性オーナーは、自分のお店を11月でたたむ決意をしており、不動産屋さんだけにはお話をしていたようです。その後私は、正式に、男性オーナーに女性オーナーを紹介しました。

3 昨年秋の迎賓館や高句麗伝説に参加した時の感想

 迎賓館のコンサートに参加させていただいた恵みに感謝申し上げます。
 いままで亡くなった方を含めるともっと多くなるかと思いますが、世界に70億人いて一握りの参加となると、超人養成場の迎賓館は、特別な場と感じてなりません。今回、演奏終了後つきものがとれたように感じました。数日前から、何者かがとりついていて、その時の自分はとりついているのはわかっていない、体のなかにその「何者」と「自分」が居てどう整理したらよいのかわかりませんでした。何者かはきれいさっぱりなくなり、自分があらわれてきました。
 高句麗伝説の2日間も終了し、からだに羽が生えたような感じで浮き上がり、視点がかわるとともに視野が広がり、今まで問題と感じていたことが問題でもなんでもなくなりました。
 7年前に亡くなった父を思い出し、1回でもコンサートに連れてきてあげることができたら、こういう経験を味わって欲しかった、と感じました。父は幼くして両親を亡くし、家にある柿の木に登っては泣いていたそうです。昼間は農作業、夜は夜間高校に通い、夜間高校の先生からはなぜ地元で一番の高校に行かなかったのか聞かれたそうですが、家が貧しいのでそういうわけにはいかなかったようです。夜間高校を卒業後国鉄に勤め、子供のいない病弱な兄夫婦の面倒、病気だけでなく、お米づくりやみかん栽培も母とともにやりながら、最大の投資は子供たちへの教育ということで私達3人の兄弟を育ててくれました。父もあまり体が強くなく贅沢もせずに生きていました。人間は本質に忠実に生きていく、いい時も悪い時もある、個性を大事にする、あきらめてはいけない、人を愛する、仕事も遊びもまじめに一生懸命、との言葉を残していきました。
 もう一人、数十年前に亡くなった母方の祖父・宥雄阿闍梨が、真言宗は護摩つまり火で空間を変えるが、ここの高句麗伝説は火を使わずに空間を変えるのか、残念ながら護摩で空間変えるまで業のできている者が今いるかは定かではないけど、と「ぬっと」出てきた感じがありました。祖父は、空海を継いだ真言密教の第一人者です。祖父は、空海が中国から持ってきたお経のなかでも中心のお経は「理趣経」で、この理趣経には男と女・愛のことが書いてありこれこそ表に出さないと、ということで若者向けに本なども書いています。宥雄が宥雄している、人は半歩先を行かないと、蜘蛛の巣に雨の雫が残っていているところの雫の光がまたあるところの雫の光へと広がっていく、21世紀は真言宗は通用しないつまり葬式仏教はだめで寺本来のありかたにもどらないと・・・等、私が小学生位の時から会うたびにそんな話をしてくれていました。祖父が戦後最初に着手したことは、供出した「鐘」の再興でした。戦争で打ちひしがれた人々の心をなんとか取り戻すために全国に寄付を求め旅立ちました。食うに困っているのに寄付とは何事だ、頭がおかしいのではないかともいわれたそうです。また、早朝地域の皆さんと暁天講座を開催しておりましたが、あるとき参加した青年が「こんなことしても世の中かわらないのではないか」と発言したところ、翌日から暁天講座は辞めたということです。
 高句麗伝説がおわり、ジェンダー講座の中で、男と女のある何かとは「真」であるとのお話をお聞きしました。
 私の頭に浮かんでくる感じは、例えば、X軸を時間、Y軸を場や空間、Z軸を次元とするならば、迎賓館や高句麗伝説という時間や場は、次元がどんどんあがる特別な経験ができるところ、あたかも人類救済装置という感じがしてなりません。ありがとうございます。






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