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「自分へのご褒美」


もう2週間経つのに、先日の山岳部の付き添いで行ったとき、顧問の一人が「自分へのご褒美として、今日は高いビールを買って帰りますわ。」と言ったのが気に障っている。別にかれのことを憎んでいるわけじゃなし、かれが中途でリタイアしたことを軽蔑しているわけでもない。かれとしては不具合な体調を抱えて、やっと「任務」を果たしたのだから、ごく普通に出た言葉なのだろうが。

たまたまオリンピックがあり、スポーツの「勝利至上主義」にうんざりし、いま読んでるマイケル・サンデル『実力も運のうち――能力主義は正義か?』の影響もあるのだろう。「あなたは値する」というアメリカ民主党の功績や報酬志向が、自己肯定としては認めつつも、評価至上主義に抵抗を感じるのだ。「自由・自主・自立」が不断の努力と勤勉さの中でしか手に入らない、というのが気に食わない。もうちょっと別な方向から、幸運なり、至福なりが訪れるのではないか。しかしながら、農耕民的な勤労や努力が大好きなわたしは、すっかりオリンピックトという「祝祭資本主義」の中にいて、これだけ頑張ったから、これこれの結果があるはずと、期待ばかりしているが。(だから、かれは自分の鏡なのだろう。)

しかし、あらためて「自分へのご褒美」という言葉が気に食わない。だれからのご褒美? 神からの贈与? すっかり世俗の常識に生き、神も仏も「まじない」くらいにしか思っていないのに、よく言うよ。余ったれている!しかも、「高いビール」? ああみじめ。貧乏プロレタリアート。付き添い人全員に夕食を振る舞うくらいなことを言わないものか。(かれに、ではなくわたしに言う)そのしみったれた言葉遣いが鼻につく!

話は違うが、わたしは生来の音痴で歌が下手だ。詩は好きだが、ランボーのような詩には程遠い。先日の「表現の会」でもそれを痛感した。人は何でこう音楽的才能に恵まれ、詩的センスに優れているのかと。優しい人は、「独特の味わいがありいいですよ。」と言ってくれるが。だが、下手で結構、居直りはしないが、表現を止めようとは思わない。いい年して、と嘲笑されようが、上手に混じって、堂々と自己表現していきたい。呆れて逃げ出すのはそっち!――こんな片意地があるから、「自分へのご褒美」なんて見積もり、おちょぼ口の常套句が嫌なのだ。(ああ、すっきりした!)

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