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「存在を表わす」


「存在を表わす」

「存在」は、英語のBeingとは違って、「存」は維持、「在」は居ることを意味し、去来する動的なものだ、と鷲田清一が、和辻哲郎の「人間の成り方、それを存在という概念で現わそうとする」という言葉の解説で述べていた。(朝日新聞、「折々の言葉」23.11.21)――引用だけれど、わたしはハッと気づいた。「存在を表わす」と言うと、ついなにか現存在の表現のように捉えてしまい、ほんとうの自分を語ることと考えてしまいがちだが、そうでもなかった。「いま、ある」自分と固定的な思い、魂の奥深くにあることを見つめるのだと考えていた。しかし、もっと動的、これから生成していくようなものとして、考えてもいいのだと。そう思うと、わたしの中の本質的なものも、その在り方も、変化の過程にあるのであり、これからどのような可能性や力を創っていくか分からない。一変に未来が開けた気になって、明るい気分に見舞われたのだ。(間違った解釈かどうか、今度の講座でおたずねしよう。)

歩いていて、「人に追い抜かれる」ときに「老い」を痛感すると、だれかが言っていた。わたしも、先日の日曜に、六甲の全山縦走路を行くと、若いグループや単独行の女性に何度も追い抜かれてしまった。別に競争で歩いているわけではないので、気にもならなかったが、「高校生よりも足が速く、いつも先頭を歩く」のがわたしの誇りでもあったことが頭をよぎる。「老人は踵で歩く。」(デルス・ウザーラ)という言葉を思い出しさびしくもなる。そろそろわたしも一人では生きてはいけないのだろうかとも。しかし、「抜かれる」のは、受身でなく、自発なのかも。日本語の助動詞は面白い。「れる・られる」は、受身以外に、可能・尊敬・自発があり、どうやらこの「自発」を、その存在の重要な意味にとっていたようだ。「故郷のことを思い出される。」の「れる」だ。あるいは、「映画を見ていたら、泣かれて困った。」の「れ」も。自然が尊敬すべきものであり、それに身を任せていれば、すべてが可能になるというわけ。そうだ、「抜かれる」も受け身でなく自発と考えればいいのだ。(こんな知恵が湧くのも、わが「存在」ゆえかも……。) 11/23記

 

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