「あれ」嫌い⇒アレルギー
球技ができないわたしは、野球なんか、どうでもいいことなのだが、やはり地元の阪神タイガーズの優勝はうれしい。しかし、それは熱狂にほど遠く、むしろ不満や恐怖を秘めているものであって、複雑な気持ちなのだ。
まず、岡田監督が言い出したとかの「あれ」という言葉の流行が鬱陶しい。阪神電車には、「ARE」=aim respect empower.というシールが貼ってあり、うまく言いなすものと関心はするのだが、人間呆けて、「あれ」「それ」と言い出したら、難儀なことという思いもあって、冷たい視線で眺めていた。第一、「あれ」が何を指すのか、仲間内にしかわからないではないか、そんな内向きな言葉を多用していては、多様性社会での会話に支障があると、国語教師として、警鐘を鳴らしたい気持ちだった。
今朝の新聞(11.1.朝日)に、岡田監督の言葉が科学的にも承認されるようなことが書いてあったが、どうも“追従記事”のように見える。「コソアド体系」という指示語が日本語独自ではなく、手の届く範囲が「これ」であるようなことは世界の言語の普遍的なことであるといってるが、問題は、「あれ」である。優勝までの長い道のりを共有したファン心理を見事にとらえた言葉として肯定的なのだ。しかし、ファン心理としては、「優勝」というと、それが逃げてしまうという、気の小ささを表すだけだろう。よく、「俺が見ないでおくと、阪神は勝つ!」と言ってるタイガーズファンを見かける。ちゃんと目標を言い定めない方が、もし外れた時にも言い訳が成り立つ、というような卑怯さも見え隠れする。今まで何度も優勝を逃してきただけに、それでも阪神を支えたいファンの心理だろう。しかし、だからと言って、ものをはっきりと言わない、ちょっと逃げ口を用意しておくような言辞は、そろそろやめにすべきではないか。
そして、もう一つ、地元だから当然阪神ファンと決めてかかられることや、阪神ファンでないと人でないような思われ方のへきえきとしてしまう。価値観の共有や、慶事への賛同を強いられたくない。ナショナリズムは、謙虚であってほしいものだ。
自分の言いたいことは、きちんと言語化し、多様性社会の中で見失いたくないものだ。
(11/10)