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「ある」と「なる」


二回目のお話しで肝臓のことが気になっている。意識や神経の及ばない肝臓によって存在している深いところの「われ」は、「ある」なのか、「なる」なのか。たまたま手にした木田元氏の随筆にも、ハイデガーの『存在と時間』に関して、アリストテレス学派とのつながりをどう考えるかを論じ、「西洋哲学の根底の〈存在=被制作的存在〉と見る概念を、ソクラテスたちの〈存在=生成〉と見る概念によって相対化し克服した」云々と述べていた。しかし、わたしには分からない。明日お尋ねしよううか。でも何が分からないかもわからないから困ったものだ。
日本語は、圧倒的に「なる」言語だ。西洋のように「する」言語ではない。だから、「お会計は3000円になります。」などと平気で言っている。「3000円にしたのだろう。」と反発してしまう。しかし、「春になる」のであり、「春にする」わけにはいかない。一方、「ある」は、『吾輩は猫である』以来、陳述詞として多く使われてきた。しかし、日本人は、できれば断定したくないのだ。だから、「ある」が分からないのかもしれない。どうも「ある」も「なる」も、われわれの意識ではどうにもできないものようだと分かり掛けたが。
今日は慣れないオンライン申請に挑戦してみた。こんなことで本当に支援金が出るのだろうかと疑いながら。それでも80%ほどできたのだが、急に「システムエラーが発生しました。」と出て、もう一度最初からになってしまった。で今日は中座。来週もう一度挑戦する。これはかなり「する」の領域だった。肝臓の領域ではなさそうだ。
(あまり勉強できなかったので、話題程度のことしか書けませんでした。)

 

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