Passion
Passionが受難である意味を深く考える機会をいただいた1月3日の存在論でした。瞬間瞬間にわかっていくこともありましたが、とても深いお話なので、慌てずにじっくりと考えました。
内と外にそれぞれ知恵があり、外は知性(律法主義)、内は詩であると。本来は内がベース(分母)で外(分子)があるのに、これまでの人間の世界は外が主(分母)となり逆転していた。そして内側から湧き出る「情動(passion)」が外(知性→頭)で捉えられると「我」になる。・・・自分自身を振り返ってもよくわかります。
昨年からPassionは受難でもある・・、何故か?・・と いだきしん先生から問うていただき、考えてきました。次第にわかってくる環境をコンサート、講座で創っていただいてきました。そしてこの日の存在論。「これまでとは全く違うことをやる」との先生のはじまりのお言葉に期待が膨らみました。
元旦の高麗さんとの対談での先生のお話、「ロシア的」からギリシア正教、ロシア正教、日本の教会、キリスト教の歴史へと・・・。
続編のように存在論は はじまりました。そして「内」と「外」の知恵のお話をお聞きし、イエス様の受難は「内」と「外」の戦いの結果だったと考えます。Passionを素直に表現することが受難になった。王も民衆もPassionは「外」で捉えていたからでしょう。「我」になった途端に人を対象化する生き方になり、他者のために生きることを見失ってしまう。「その結果」が2000年に渡り現代まで続いて来た。・・と理解しました。
モンゴルに征服され、自由を失ったロシア人が「教会通い」だけは許され、内面豊かになっていった。結果的にモンゴルを追い出したが、次第にヨーロッパナイズされ、革命が起こっていくロシアの歴史、しかし農奴だけは変わらなかったとのお話はドストエフスキーの「悪霊」を読み解く上で思いもつかない大きなヒントと感じました。同時に「内」と「外」の一体化がいかに難しいことになってしまったのかを。
そして「悪霊」が書かれた19世紀の社会状況が現代社会と似ていること、ノイズを気にせず誠実に生きていけば良いだけと確信をもって教えていただけることが大変有難いです。
実はこの日、講座会場に向かいながら「何故、存在論なのか?」を考えていました。その疑問にいきなり答えていただくように「今日はハイデガーは置いておいて・・」と話され、その意味はすぐにはわかりませんでしたが、妙に納得しました。先生にお会いして31年目になる今年、「いだき」の中心を自分の頭で理解するところからスタートする機会を創っていただき、心から感謝致します。勿論、自分の頭でと言っても、先生のこの上なく丁寧で極上の講座を通してわかる経験の場があってのことです。
いつも本当にありがとうございます。