「主体的に生きる人生」の自覚
尊敬と真の信頼関係が「依存心」を超えて自分自身を主体的に生き、いだきしん先生のお役に立てる人生への道に繋がると考え、臨んだアントレプレヌールサロンでした。
先生、高麗さんと出会えてから31年。この間に一緒に活動させていただいたこと、平成8年に起業して全国各地で自分がやってきたことをホワイトボードに書き出し、一覧にして見たときに答えは出ていましたが、講座の中で表現、質問、対話させていただくことでより一層はっきりしました。「自分自身」を生きることと「我」で生きることは全く違うことは頭ではわかっていても長年繰り返してきたことですが、昨日で終わりました。先生が全員に「今、なぜ生きているかを考えれば良い」と仰った一言に答えを見出しました。
「いだき講座の意味を誰もわかっていない」とご指摘いただいた瞬間には、生命の起源から今に至る人類全体の問題を伝えてくださった応用コース特別編のことが閃き、「我」という頭、意識を払っていただきました。
1990年8月の「24時間テレビ」熊本城の31時間連続演奏のこと、その前々日に阿蘇の幣立神宮で初めて先生が野外でピアノを弾かれた時の話もしていただきましたが、ピアノの音に呼応するように風が吹き、鳥がさえずる空間にカメラ撮影をしながら身を置かせていただきました。その「今に生きる」経験もアントレ前日の一昨日の夜に自分自身の身の内に生きて「ある」ことを感じていました。31時間演奏が終わってから天空に針の穴ほどの穴が開いたとお聞きしたこともあの日の衝撃と共に今もあります。
いだき講座の意味を考える中で、存在論の意味をこの1年よく考えます。昨日の講座の中で、「(先生が)話すことがわからなくても聞けるということは特別なこと」との先生のお話がありました。このことはこの1年間「何故だろう」と自分でもよく考えていたことです。東北の応用コースで、胎児期・幼児期の3ヶ月前のことまでを解明されても、さらにその前のことがわからず探求され、母の胎内に生まれた瞬間の光に行き着かれたとのお話に答えはあると感じていました。「ある」という存在。「現存在」のハイデガーや「Daimon」によって自らの死を受け入れたソクラテスで表現される「存在論」ではなく、いだきしん先生の完全オリジナルな 「存在論」に「(先生のお話を)聞ける」理由、答えはあると感じます。
時間を忘れ「共にある」経験はいよいよネット空間を通して世界に開かれる時を迎えました。「我」を捨て自分自身を生かし、お役に立つ「存在」として「主体的に生きる人生」の自覚のはじまりをありがとうございます。完璧なご配慮をいただき迎え入れて下さった高麗さん、スタッフのみなさんにも心より感謝致します。
本日のオンライン応用コースもどうぞよろしくお願い致します。