「自粛」について
閑散とした街を見ていると、人々が自粛要請に従順に対応しているようで、ひとまず安心する。しかし、一方で、「オレ、怖くないもの!」「コロナに立ち向わなければ!」と豪語して、笑顔で闊歩する若者がいたり、「そんなこと言ったって、仕事しないと生活できないじゃないの!」と、文句や不満一杯の大人たち(わたしもそうだが……)が大勢いるので、いったい人々の頭の中に、「自粛」なんて観念がもともとなかったのではないかと思ってしまう。自分はともかく、世のため人のため、自分の仕事や行動を控えめにする、というような思いがなかったのではと。あまりにも、民主主義だ、個人の権利だとか言われ、仕事中心に考えすぎてきたために、あるいは、金中心に発想するようになってしまったために、遠慮とか、自粛とか、謙虚とかの想念は遠くいきすぎていたのかもしれない。だから、人は買いだめに走り、これを好機として、マスクの転売に躍起となり、現金支給にばかり気が向いてしまう。そして、自粛の意味が分からないままに、出歩き、人と会い、感染拡大を引き起こしてしまう。ちょっと立ち止まって考えてみなければならない。
ふつう人は利己主義的だ。「自分さえ良ければいい。」「わたしの好みを優先したい。」と考えるか、まずは自分の気持ちの肯定から始める。自分の感情を起点として行動する。だから「自粛」なんて眼中にない。また、そうでない人は、そもそも「自分」がないのであって、他者の視点のみに拘って、世間を渡り歩こうとする。「世間の目」が怖く、「人にどう思われるか」が心配なのだ。これも「自粛」ではないだろう。
人を批判しているのでなく、わたし自身の心を分析しているのだ。まずは、「自分」がなければならない。自分の存在を問わねばならない。「なにをしているんだ、お前は!」と。誤解されるかもしれないが、信仰に走り、自分をなくして、信じるのとは違うと思う。そういう「自分」が確立していなければ、「自ら慎む」の意味がずれてくると思う。行動しながら、世の中全体への視野を保たなければ、意味がないと思う。もちろん、「自粛」さえしていればいいのだと、家にばかり籠っているのも変なこと。自分を賢く保つ機会なのかもしれない。