“裏サミット”
大阪のサミットを尻目に、“裏サミット”を気取って、能勢の山小屋で一泊してきた。しかしながら何の目的も持たず、焼き肉をつつきながら、思うところを分かち合うだけの一夜。参加者は同じ学校の3名。Aは隠士憧れの人。「偏差値」教育や受験勉強偏重指導は、真の頭脳の明晰さを育成しないばかりか、人間の多様性を承認しない大いなる過ちであると嘆きつつ、職場で「孤立」していると思い込んでいる屈原のような人。Bは「コスパ」最優先の人。いかに「お金」を稼ぐかが人生最大の課題であり、経済観念の欠けた学校教育ほど、愚かなことはない。人口動態や消費傾向を考えて、生徒が「損」しないように導いてやるのが教師の務め。頭の悪さは「偏差値の低さ」であり、これは如何ともしがたいから、分に応じた指導こそ望ましいと確信する合理主義者。因みに、B先生は小屋のオーナー。そのかれが、一銭の得にもならない“裏サミット”を提唱するところが面白い。二人とも、『徒然草』のファンである。わたしは、二人と仲がいいが、物足らなさを二人に感じている。あまり兼好法師が好きではない。そして、精神と経済を重視したいが、それだけではなかろうという思いがある。さらに、「いだき」のことなど理解の外、個人的なこととされているようだから。(現に、いつかコンサートに誘っても、A先生は金がないからと、B先生は他の用事がるからと断ってきた。)
わたしは、学校教育を早急に改革しなければならないと思っているし、「国語」の授業をもう一度根本から見直さなければならないと思っている。しかし、人間だれでも可能性はあり、精神的理解や変革への意志は持っているものであるというわたしの思いは、A先生の大衆軽視や現状批判の立場からは、絶望的に見えるようだし、B先生の合理主義からも夢想にしかとられない。「先生の言うことを理解できる人は、ごく上位の20%くらいなものでしょう!」と笑う。かれによれば、地域や環境による文化度の高低もはっきりしていて、「阪神間」だけにしかわたしの「国語塾」は展開できないだろうとも言う。その「阪神間」の文化を、わたしは、あまり評価しない、(A先生は、「阪神間」のエリート校出身なのだ。)すぐに打算と功利に走る「大阪文化」にも、見栄と教養を誇る「阪神間文化」にもなじめない。しかし、否定もできない。実生活の向上と精神文化の充実を大切にしたいから。
いだきしん先生は、「だれでもOK!」と言ってくれている。だれでも宿命と出自から解放され、新しい生命を創造的に生きていけると。わたしの力では、A先生もB先生も「止揚」出来そうもないが、お互いに思うことを話し、議論ではなく対話に終始し、中傷批判することはなかった。驚いたことは、B先生は、自分は少数派だと思っていること。徹底的に合理的な思考も、世間では通用しないのだ。また、A先生は、血縁とか、学歴とかから解放されていないこと。それぞれに特異点を持ちながら、一夜を過ごした。星が出ていたかと思うと、驟雨に見舞われる、そんな梅雨の候である。