「黙って、人を刺す」
今週の川崎での悲惨な事故に、なにか世の中全体の「衰微」と「ゆがみ」を実感するのは、私だけではあるまいが、犯人が「黙って」子どもを刺していったというところに、その凶悪さの原点があるように思うのだ。言葉がないのである。犯人がもう少し「会話」できるような人であれば、言いたいことを言える人であれば、こういう事態に至らなかったのではないかと。そう簡単に単純化するのは良くないことだろうし、「引き籠り」がいけないというようなすり替えにも見えるかもしれないが、国語教師としては、生徒たちに、できるだけ言葉にし、語り合うことを大切にしたいと思う。もちろんただ言語化すればいいのではなくて、本音や肯定的な気持ちに沿ってということだが。
実は、学校の最後の授業のとき、目がチカチカして生徒の顔が見えなくなって慌てた。午後から疲労感が激しく、休まなければと思いつつ、ついつい「朗読」に夢中になっているうちに、クラっとしたのだが、もしかしたら倒れてしまうのではと焦ったのだった。しかし、今日、下のような詩を書いて、窮地を脱しえた感じがする。
危機
学校で、昨日の最後、6限目の授業をしていたら
変に目がチカチカして、生徒の顔が見えなくなって慌てる
眼をしばたき、何とか見極めようとするのだが、クラクラするばかり
生徒は、いつもの、わたしが変顔して笑わせようとしているのだと思っているらしい
ヤバイ! 半年前の血圧急高のときの再来か、倒れるのかもしれない……
実は昼休みのときから、疲労感がひどく、眠くて仕方なかったのだ
山での遭難騒ぎも乗り越え、やっと元気を回復したときだったので、認めがたく
まさか先週の山歩きの疲れでもあるまいと、たかをくくっていたのだが
あの「高年齢なんだから」という非難の声が、耳元でワンワンする
ホウホウの体で職員室に戻り、ウエットティッシュで目を抑え、休む
同僚と学校を出て、坂を下ったところの喫茶店で憩い、死地を出る
その後、温泉に行き、ゆっくりし、少し寝たら、大分元気を回復する
幸い、土日は何もないので、ゆっくり休養日にあてられるのだが
明るい空の下、自分の命の危機を感じるのは、複雑で、少し寂しい
この疲れやすく、ナイーブな体に、なにか取りついているのだろうか
いやいやごくふつうに年齢相応の現象に過ぎないのかもしれない
だからあまり無理をせず、ただ無理をしないでなにができるというのか
いま倒れても、少し周囲に迷惑をかけ、少し親近者の悲しみを誘うだけ
いま倒れたら、中途半端になってしまうこともあり、残念な気もするが
それも仕方ないことと諦めもできるような、できないような、の方が強い
もう少し努力して、活躍し、人と共に、生を分かち合いたい心もあるし
優しい言葉を掛け、悩む人や弱い人を支え、ともに存在を表わしていきたいもの
そう思うからか、自暴自棄にもならないし、冷静に落ち着いていられるのだ
あの詩人が言う、6月の夕方、黒ビールで乾杯するお百姓のように生きたい!
(※茨木のり子「美しい村」による。)