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「ゲッセマネの庭」から帰って


まるで「ゲッセマネの庭」にいたような感覚の昨日の講座でした。「聖書」に疎いので、今日持ち合わせの『100分聖書』(マイケル・ヒントン著)を見ながら、メモを清書したのですが、ちっともわかっていない自分が浮き彫りになるばかりで厭になってしまいました。高麗先生が「頭が悪い私」と盛んに言われていましたが、わたしなどはもう理解の外にいるしかないようにも思うのでした。しかし、落ち込んだりしていません。すごく上機嫌なのです。なぜなら、ほんとうの「即興」の意味が分かったから。(わたしが民謡における即興の掛け合いに言及したのは、ご指摘の通り、違うことでした。伝承の沢山の言葉を使って、当意即妙、男女の機微を頓智でみごとに表現することとは別で、先駆的に人間として生きることの実践の意味での即興とはかなり離れたことでした。ついつい軽薄に言葉を使ってしまうのがいけないのだと、「応用講座」の最初にも注意がありました。)そして、枯渇していた「生命力」が、水を得たように蘇ったこと。余計な心配や不安は、「非本来生」に生きているから生じることと分かって、元気を回復しました。(「先生ももう年なんだから、そんな遭難騒ぎなど起こさず、ちゃんと借金を返すように心がけてくださいよ。」と言われたのですっかりしょげていったのです。)あまりうれしくなって、入り口のガラス戸に衝突してしまいました!(軽率さ丸出しで恥ずかしい!)さらに、これは最初の「応用講座」のピアノ演奏のときに起こったのですが、「まだまだ一人で生きていける!」という感覚です。ちょうど高齢者の運転事故が続き、免許書返納が通念のようになりかけていることに反発を覚えていました。(高齢者用の安全な車を開発すればいいだけのことです。)「非本来生」に生きず、「解決言語」(高麗先生)を話して、新しく元気に生きて、平和の世の中を創ろうと思います。

「常用漢字」や「漢字制限」は、もちろんわたしが関与したものではありませんが、それで教育を受けてきた自分には、戦後の民主主義を象徴するような新鮮な記号改革でした。わざと字画の多い字をよしとするような意識や、高踏的な熟語を喜ぶ権威主義から解放されたようで。前にも触れましたが、「胸が締め付けられるように痛い」ということを、「絞扼感」と表現すべきといった医者に腹が立ちます。「やまと言葉」で言えるものを「漢語」で言い直すことに、「話し言葉」と「書き言葉」の一致と違う方向を感じます。「万葉集」も昔は「萬葉集」だっというのはどうやら違うようです。昔から「万」だったのです。しかし、だからと言って、「当用漢字」が妥当とも思っていません。昨日の「禮」は、おっしゃるとおりで、これからは、学校でも「元の書き方」に触れながら、言葉を記号としてとらえるのでなく、「生を動かす」ものとして、大切に扱っていこうと思います。

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多賀城「高句麗伝説」にて
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