「与えられた命」
美しく晴れた冬空から光の粒子が降り注ぎ、なにか神々の世界を歩いているように思われる。昨夜のコンサートのおかげだ。あの時、最初は快いリズムに乗って、体が浮遊しだし、重層するうねりの中で洗われ、最後は郷愁に似たメロディにうっとりしてしまっていた。終了後、真っ暗な白川沿いを「アリラン」を口ずさみながら歩き、自分の再生を確かめたのだった。体の底からのうれしさを感じていた。
今日も学校へ出たが、生徒たちはちっとも真面目に取り組まないのに、そして、教師である私も、どう迫れば、「書く」ことや「考える」ことをさせられるのか、まるで分っていないのに、「授業」はうまくいったのである。彼らと優しく会話し、交流できたのだ。中には、ミルクコーヒーをくれる生徒もいた。
戦後すぐ、志賀直哉が「国語問題」というエッセイを発表し、「国語」をフランス語にすべしと言い、物議をかもした。“小説の神様”の発言だけに、みんな驚いたが、いったい「国語」のどこが問題なのか、なぜフランス語にしたらいいのか、根拠も説明もまるでないものだけに、やがて沙汰やみになってしまったけれど、あらためて、「国語」とはなにか、どういう言葉なのか、をはっきりさせ、そのうえで、言葉力を養うことを、まず私がやらなければならないのだ、そんな「冒険心」が湧いてきている。
おとといの存在論で、「与えられた命」と口にしたら、先生は、「それは日本語的な言い方」とすぐに言われたことが残っているからかもしれない。「れる・られる」という助動詞は、受け身・可能・尊敬を表す前に、「自発」というのがあって、「泣かれて困った。」というのは、「泣こうと思っていないのに、勝手に涙が出てしまった。」ということが最初なのだ。この「自発」ということが、昨日のコンサート・メッセージの“冒険”に近いようにも思った。
でも、その時、わたしは、「受け身」として発言していたことを、やっと気づき、先生が「自発」の意味に戻してくれたのかと、今日になって分かった。ともあれ、元気に「国語教育」に取り組んでいこうと張り切っている。ありがとうございます。(1/29)
