京都の講座の行く前に
ハイディガーの「投企」とは「自己の未来の可能性に向って投げかけること、企てること。」だが、最近、「自己」とは何か、「可能性」とは何か、と考えて、それが容易に語れないこと、一体、「わたし」を定義することなどできるのだろうかと思って、しばらく“保留”状態にある。不確実性、複雑系の世の中にあって、しかも、原子の刻々変容することを知っては、これがわたしの「本音」、これこそわたしの個性なんて、言えないのではと思うから。しかも、どうやら真の世界は、言葉の向こう、見えない「大象」にあると聞いては、とても語りうるものではないことと思ってしまう。
自分をちゃんと捉えたい。すぐに言葉にならなくとも、「小腸」レベルからの自信とか確信が欲しい。いや、コンサート以来、もっと前から、手にしているはずなのに、ときどき見失い、不安や懸念や絶望の方に身を寄せてしまうのだ。今朝は、そんなことなく背筋が伸びているが……。
自分のやりたいことを追求していくのが根本だと知っても、それで食べていけないと話にならない。いくら最高最善を尽くして、美味しい食品を店頭に置いても、売れなきゃだめだ。「希望」を「仕事」に出来なきゃならないし、アーレントのいう「労働」から「仕事」に生きていくべきだ。でも、資本主義の世の中、「商品」にならなければ始まらない。いくらユニークな教育を提供しますよ、と叫んでも、賛同し、参加し、協働する人が集まらなきゃ始まらない。自分なりの名作を書いても、本屋の店頭にならべて、売れなきゃだめだ。
となれば、いかに知らせるかということか、いかに呼びかけるということか。「宣伝」が大切!しかし、それも容易ではない。きっと新しい感覚や気づきが必要なんだろう。今日はそれを手にしにゆく。(12/13)
