広島原爆忌に
広島原爆忌に
「戦争を終わらせるために、仕方なく使ったんだ! 最初に真珠湾攻撃をした日本が悪いのだ。」――大方のアメリカ人の納得、日本人の諦め。たしかに、三日後の長崎の原爆投下で、すっかり戦意をなくし、降伏せざるを得なかったのだ。戦争は終わり、被爆した実父は、大阪の我が家に帰ってきた。毎年、夏になると醜いケロイドが顔に目立ち、居候同然の実父は、ますます影を薄くし、昭和42年母と離婚、それから10年ほどして、豊中の病院で死去。原爆の後遺症の結核が死因であった。(わたしは33歳だったか。平成7年の震災以来、世話していた妹ととも音信途絶、詳しい記録がない。享年は61歳だったか。)
わたしは、毎年夏、原爆と共に実父のことを思う。どうしようもない“負の遺産”のような気がして、心を痛め、さてこれからどうしたものかと考え込んでしまうのである。「核軍縮」なんて、まるでお題目みたいで、核兵器の保持が戦争回避につながるなんて、とても考えられない。原子力発電をやめ、軍備に核を加えない方向を模索すべきである。実父の血を受け継ぐわたしは、何とかその性格的弱さを越えて、常に自己表現を続け、新生の意欲を失うまいと思っている。
瓜二つというくらい実父とわたしは似ている。(子どもの時の実父の写真を見て、わたしかと思ったほど。)その真面目さ、お人好し、その気の弱さ、実業力のなさ、失敗と挫折の繰り返し……。宮崎の父から地方の映画館の支配人を任じられながら、実父は、多額の赤字を出してしまい、使用人に随分の額を横領された。そして、それからしばらくして実母と離婚、「原爆手帳」を抱えて入退院を繰り返し、60代で死去してしまった。わたしは、いつも“反面教師”のように父のことを思っていた。遺伝や運命を何とか乗り越えなければと考えていた。(核無力化、運命超越を唱えられるイダキシン先生に惹かれるゆえんである。)平和大行進に参加し、慰霊碑の前でビラを配って逃げた体験もあるし、関西電力前の反原発デモにかけつけたけ経験もある。そして、なんとしても自分で仕事を創り、生涯かけて、前進していきたいと意気込んでいる。原発も実父も乗り越えて、平和を目指し、国語教育に専念していきたい。あらためて、「私とは記憶そのもの」という言葉(小坂井敏明『神の亡霊』)を思う。
戸棚を整理していたら、昭和33年の実父が宮崎の父に送った「運営失敗の詫び状」が見つかった。なぜそんなものがここにあるのか不明だが、なんとか黒字になるように失地回復を願う気持ちが伝わり、気が滅入る。父には通じず、すぐに馘首、大阪へ呼び戻されてしまったことを覚えているので一層! 1945年8月6日、実父は、部隊に出勤のためか、満員の市電に乗っていて被爆したとか。連れていた兵士は吊革を持ったまま即死し、自分は一瞬、建物の影か何かのため助かったと聞く。その後どう逃げ、どうしたのか、実父はあまり語らなかった。わたしも聞こうとしなかった。やはりちゃんと聞きとっておくべきだった。実父の手紙を見ながら、歯を噛みしめる。(8/6)