生きる気力
人間は自分の気持ちを表現できる場がないと生きる気力を失っていくと、母を見て胸が痛くて堪りません。昨日は、1ヶ月振りの母との面会でした。書類に署名をもらおうとしたら、開口一番「私は捨てられたのか」と問いました。先月の面会で時間をかけて話し合ったのに、また戻ってしまったのかと驚きとショックが入り混じりました。誰に聞いていいのかも分からず、電話をかけることもできず、一人考え続けていたそうです。そして面会前夜、亡き父の写真に向かって話かけ泣いたと云います。母の出した結論は、「捨てられても仕方がない。悲しんだり、恨んだりしているわけではない。今まで本当によくしてくれたと感謝しかない。」と、先月と同じ言葉を私に伝えるのです。そして、自分の為にお金を使うことはない。家に帰りたいと続くのです。面会の朝、スタッフの方に「私は捨てられたのか」と聞いたそうです。そうではないと聞いても、自分が物忘れがひどいからと云われたと私に話します。そうならない為に「毎晩、頭の中が蜘蛛の巣にならないように足し算、引き算を口に出して言っている。忘れることもあるけれど、まだおかしくはなっていない。」母の言葉は切ないです。母の言葉を聞いていると一本の筋が通っています。「一方的に頭を押さえつける言い方でなく、もう少し緩みのある言い方で聞く耳を持ってほしい。」と静かに母は話します。「それなのに『覚えていないじゃないか』が加わる繰り返しなので、普通に世間話もできないし話すことに臆病になる。」と聞き、確かに私でもそうなるなと頷きました。前回の時もそうでしたが、私が実際にその場に居るわけではないので、母から聞いた話は担当の職員の方にそのまま伝えています。事実が異なる時もありますし、現場にヒアリングした結果を踏まえ教えていただいています。ですが今回感じたのは、母は話をする人がいなくて一人で毎日過ごしているのではないかということです。実際に前の施設では話を聞いてくれる人がいたと云いますし、週末は私と家で過ごすのでよく話してくれました。今は私と家で過ごす時間が無くなってしまいました。母の表情は、また能面のようになりつつあります。施設を変えることで、同じ環境の中で暮らす方たちと楽しく過ごせればと願っていましたが、終の棲家の身の安全と引き換えの代償の方が大きいのでしょうか。次々と疑問が湧き起こる今です。一つ一つ事実を確認しつつ、どうしていくか考え動いていきます。母が一人で心を塞ぎませんようにと願います。