新しい朝、再生、今。
「再生」のメッセージを何度も何度も読み込んでいた時に考えたのは人類史の中でホモサピエンスだけが生き残り、今、まさに消滅か生き残りかの瀬戸際にある時を迎え、私たちが生きていることの意味です。そして今、この時にいだきしん先生の愛のフィールドにあり、コンサート、講座という形でこの壮大な人類史の全体性を身体ごとで伝えていただいていることでした。「奇跡に奇跡を重ね今日を生きている・・」との文章では何度読んでもイエス様からいだきしん先生へ至る人類史が浮かび上がります。まさに今、そのイエス様が神との約束を果たしたその地域が戦火にまみれ、人類全体の未来がかかってしまっている状況です。
その神についてはずっと身体の内に疑問が残り、主にこれまでも存在論で何度も何度も先生に質問する中で考えてきました。今回の京都の存在論で知りたかったのは、その神とイエス様の関係性の「今」でした。存在論、応用コースに続いてビデオ講演会をお聞きすると、その神について高麗さんが子どもの頃からの体験を語られました。高麗さんの表現はとてもリアルで、どこか私自身が疑問に持つ神とイエス様の関係性の「ある何か」に共通するものがあるかも知れないと感じます。迎賓館コンサートが終わって出口のところの椅子に座って静かに外を見ておられた高麗さんにコンサートのお礼を言った時、高麗さんが「ありがとうございました」と返してくださったやさしく澄んだ声は高麗さんを通して聞こえた花々や木々からの声!?、と感じました。
先生の荘厳なピアノ演奏を経験したその一日の瞬間瞬間に多様に感じた内面を表現しようと、書き込み前に皆さんの文章を一通り読ませていただいたら、ある方の文章から存在論の先生との対話の中で先生が「イシス」と発せられたことばを思い出させてもらいました。恐らく私が最近久しぶりに見た映画「ダ・ビンチ・コード」でのマグダラのマリアの話について伺っている中で先生が「イシス」のことを仰ったと思います。私の中では対話の早くから晴美さんの存在を感じていてマリアさん、イシスさんへと繋がったのでした。
先生は宗教を知り尽くした上で完全に宗教を超えて一人の人間としてイエス様と出会い、「ナザレのイエス」という強靭でやさしい存在を語り続けてくださっています。私は宗教的なことはほとんど無知ですが、イエスという方の本質を知ってから先生が語られるイエス様はとても身近に感じるようになっています。その宗教を超えた話の中でさらに気になっていたのが13人と言われる弟子たちです。一人一人が生きる渦中でそれぞれに迷走したにしても結果的にはキリスト教という宗教をはじめた弟子たちによってイエス様のことは現代まで聖書というベストセラー作品として世界中に知られます。そこからまた田川健一さんの「イエスという男」に描かれたようなイエス様が伝えられてきたことは人類総体の伝承の力と感じます。しかも当時から現代に至る民衆の一人、私たちがいよいよ直に問われる時代に入っています。深遠で荘厳、内面の奥深くまで突き進むピアノの音にとことん気づかさせていただきました。
「再生」がすでに自己にも起こっている。この経験がやっと頭の裡にも溶け込んできて、今朝はとても心地よく目が覚めました。内面豊かな日々に心より感謝致します。ありがとうございます。