「見る」について
見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む(柿本人麻呂)
この歌について、「見る」ことにより、保護霊のあるその地との接触は、すでに行われている、と白川静『初期万葉論』に出て来る。持統天皇の吉野行幸は、天皇霊を祓い清めるためだったとか。その清流と常滑の美しい光が、ほんとうに見るものの魂を癒し、命を聖なるものに、つなぐ作用が、景色を「見る」ことであり、言葉にすることなのだ。単に叙景ではなく、「自然との交渉を呼び起こし、霊的に機能させること」が「見る」ということなのだと白川先生は述べている。(吉野在住のKさんは、ダムのできる前の吉野川の宮瀧付近の場景は、まさにそのような「見る」を実感させたと語る。今はあんまりよくないらしいが、もう一度ちゃんと「見る」ことをしたい、と思った由。)
『万葉集』の動詞の使い方を、あらためて見直すことによって、ごくふつうの「見る」とか、「知る」とかが、もっと深淵なコンテキストを持っていることが分かり、日常の言葉の使い方がきちんとなるように思う。そういえば、「味を見る」とか、「親の面倒を見る」とか、かなり意味の違うものまで、一緒にしてしまっているし、ふだんあまりそれを意識していない。「正直者が馬鹿を見る」とは、「体験する」くらいの意味か。そうなら何かとの「接触」を含んでいて、原義が生きていることになる。主体のことを考えないで、客観的に「見る」ばかりだから、世の中を見て「絶望」してしまうのかも。(5/26)