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父の涙


東京応用コースと三鷹コンサートの日程に丁度かぶらなかったので
父の葬儀に参加してきました。

享年97でした。

戒名は「黙って高みを目指し続け、人には優しい心をもつ」というような意味なんだそうです。


訃報に接し最初に浮かんだのは父が一度、いだき講座を受けると言ったにもかかわらず受講しなかったことです。

コンサートには何度も参加し「自分にはわからなかった」と語っていましたが少なくとも批判、批評は一切なしです。
頑固でしたが、自分がわからないものを悪く言うほど馬鹿ではなかったです。


沖縄でのST2コンサートに向けての活動の最中、父の車をお使い頂く際に父と母が揃って先生と高麗さんにご挨拶をさせて頂いた時は珍しく二人の息がピッタリ合い、まるで天皇陛下にご挨拶するように深々と真摯に頭を下げました。その姿は今も鮮やかに蘇ります。

今更ながらですが、その折にはご用命を賜りまして真にありがとうございました。

大阪で応用コースが開催されていたころ、父が世界情勢などについて突然語り出し、それを聞いておくと、次の応用コースのテーマに重なる話だったということが何度も続きました。
それだけ感性があるなら講座を受ければと思ったのですが、そこは頑固でした。

感情や気持ちを表に出さない父の涙を一度だけみたことがあります。
大阪のいずみホールでのコンサート休憩時間、ホワイエにて一人慟哭にむせび泣き立ち尽くす父。
驚く私をみて「ここや、この辺りやないで、ここや!ここ!!」と地面を指しました。

東洋最大の兵器工場跡というのは知っていましたが、父が立つ正にその地点でかつて最大射高2万メートルを超える新型高射砲を自ら試作したそうです。
その後、自分たちで六甲山中に設置し父自身が操作して1万メートル上空を侵入し大阪へ向かうB29爆撃機を一発で撃墜したそうです。

その後はマッカーサーが着陸する数時間前まで徹底抗戦の構えを見せることになる航空総軍帝都防空航空隊の本拠地厚木基地に異動、リモートコントロールする対空火器の試作機を操作してグラマンF6F艦上戦闘機を撃墜します。

私は講座を受ける前までは、あまり父と話をしたことはなく
私にとって父は「B29とグラマンを撃墜した人」でした。
実家の店番をしていたころ、お客さんに「いらっしゃいませ」と言うと完全に空気が凍り付きました。
微動だにしなくなったその人をみて、あ、この人、、、 おとうちゃんや、と気付いたこともありました。

父は悔しくてたまらなかったんだと思います。
「こんなやり方では戦争に負けてしまう」そう語気を強め、戦争指導者でありながら戦後の政界でも権勢を振るう特定の人物への怒りを口にし、それが日本最大の労組の一番大きな分会の書記長として安保闘争に戦後の人生を捧げ、家にもまともな時間に帰らなかった理由として父は私に語りました。こういう話を聞いたのは私が講座を受講後のことです。

ハワイへ行ってきた人が洋行帰りともてはやされた時代に父は東欧各国を歴訪し、本土復帰運動を展開する当時異国だった沖縄にもパスポートをもって渡航していました。
ポーランド自主労組連帯結成の際には、ワレサ書記長を招聘する運動に参画しホスト役を務めた父は来日された同氏と固く握手を交わしました。

時は流れ反戦、反権力の気鋭と熱狂が薄れ、個人の物質的豊かさに埋没していく世相の遷いの中、父は宅配便事業を起ち上げます。工場から問屋経由、販売店に製品を運べば事足り、多くの国民が皆同じ商品を買っていた時代に個人から個人への様々なあらゆる荷物を運ぶ物流網を構築するという話は周囲にまるで理解されなかったそうです。
離れ小島でも若干の割増価格だけで運ぶシステムを創り上げ、結果的には大都市間輸送に特化し安値攻勢で参入した後発企業に追い抜かれ今では宅配便という言葉も使われなくなってしまいました。



父と父に連なる魂が明日の三鷹コンサートに共にありますように



藤井 真則

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NPO高麗 迎賓館にて
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NPO高麗 東北センターにて
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府中の森芸術劇場ウィーンホールにて