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覚醒とは羽を得ることか


新年最初の「いだきしんコンサート」! でも少し遅れて到着し、2階席で聴くことに。まるで清流の音を渓谷の道で聴いているように感じた。「抱負・目的」が適うように導いてくださる、というメッセージに安心していると、体中の力が抜けて、ふーっとしてしまう。あらためて自分の志をこころで復唱していると、なにやらもうどうでもいいようにもなって、眠いような気持ちに。コリャいけないと座り直すも、高い崖の上にいて、めまいさえ感じる。少しふらふらして休憩後の第二部、今度は「覚醒」。自分のまことの姿をとらまえ、きちんと生きていけば、「幸せ・愛・平和」に向かって、不可能はありえないということ。しかし、これが真の自分と覚醒するとはどういうことか。と頭で考えているうちに、また頭がくらくらする。でも、なんと体が軽くなっている!気持ちがいい。これで羽があれば飛び上がれそうだ。拍手のリズムがテークオフの瞬間をとらえようとしていた。よし、飛ぼうじゃないか。
それでも、今また考えている。「真の自分」とは何だろうか。過去を振り捨てて、「記憶」をなくすことではないとのこと。同時に「未来」を見据えて行動するとは? お正月だから、いやでも日本人を意識するが、そのような「アイデンティティー」を得ることが、「存在を問う」ことなのか。「在日」の人たちは、どのようなアイデンティティーに生きているのだろうか。沖縄の人は?性同一障害の人は?性別、年齢、学歴……、どうやらそこに「存在を問う」のは間違っている。じゃあ、「真の自分」とは、どうしてつかむのだろうか。全裸になっても、それは醜いだけかもしれないし、告白しても、それは弱さをさらしているだけかもしれない。「である」から「する」へと丸山眞男は言っている。「教師である」ことより「教師する」ことが大事だと、そこまではわかるのだが。また、常識や観念が邪魔していることもわかるのだが。気分よく飛び回っているだけではなさそうだ。あすの「存在論」で一歩進みたい。

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