不可思議なわかり方の奥義
いだきしん先生が「丸ごと変わる」と仰っている意味がやっとわかりかけてきました。「人間とは」を突き詰めれば「荒唐無稽なこと」に思われるということが腑に落ちました。しかし、実際は荒唐無稽ではなく全て先生はご自身のいのちで実証されていて、その成果の一部をお聞きする時、いつもどこかでわたしは今いる地点とは全く異なる、想像もできないある地点へジャンプしないと理解できないとは感じてきました。例えばそれは先生のお言葉で昨日も表現された「超人」です。ニーチェは「神は死んだ」と言いましたが、先生は「そういうあんたは誰なんだ」「親の言うことも聞かないのになんであんたの言うことを聞かなけりゃあならんのだ」です。先生の存在が最もわかりやすく、また「人間とは」「神とは」が最もわかりやすくわたしには伝わります。
一昨日の結工房の先生の焙煎で起きていた世界のことと、そのコーヒー豆にお湯を注ぎ、珈琲を淹れながら詠まれた高麗さんの珈琲即興詩はまさに一般的には荒唐無稽なことのように思われてしまうと思いますが、真実であること、それどころか先生の焙煎される瞬間の連続と高麗さんの珈琲を淹れられる瞬間の連続は時間差があるにも拘らず一致する真実を感じます。先生の焙煎で起こっていることと高麗さんの珈琲即興詩が「完全なる一致」かどうかはわたしにはわかりません。しかし、時間差、環境の差があるのに同時性があり、本質的な世界はきっと一つであるのだろうということが昨日、高麗さんの珈琲即興詩の11連続の動画でお聞きしていて自分のいのちに伝わってきました。このような真実を世の人は荒唐無稽というのが常ですが、先生は全てをご自身のいのちで実証されてきたことはいつも仰っていますし、出会った時から「それ」については不思議とわたしには確信を持ってわかります。自分にとっては「ここ」がとても大事です。長きに渡って先生を追いかけてきたのは出会いの時の不思議な確信があるからです。ピアノの音のそのままをわからなくてもその確信が不変の継続の動機になっています。
そして、先生が仰るギリギリのところに来ている今の状況は「恐怖」そのものを感じます。広島、長崎を想起しました。そして、その長崎のグラバー邸の坂でのお母様のお話によって人間のあくなき可能性を教わりました。「自分のことば」に神と言われるある存在の力がはたらき、人間は自由に楽しく生きられることが、最も身近なお母様のことで理解できるのも先生の「不思議なわかりやすさ」です。ふつうの人間が自分自身のことばを発することで生きる可能性を拓くことに「恐怖」を超える「幸せ」の道が開かれ希望を持てます。「自分の言葉」、しかも「書き言葉」こそ神といわれるある存在のちからがはたらくとはどういうことなのか、今はよくわかりません。が、このwebサロンの経験はそこもわかるための経験ですし、自分だけの下書きこそ大事ということもお聞きして確信が持てました。講座、コンサート、珈琲の焙煎、あらゆる催し・・・。昨日淹れていただいた「天生」はとてもまろやかでやさしく身体の深みに浸み込んでいきました。いつも尊い経験の場を本当にありがとうございます。