KEIKO KOMA Webサロン


三鷹市公会堂の高句麗伝説をありがとうございました。

本当っぽい嘘が紛れる中、『本当っぽさ』が気色悪く、叫び出しそうになる開演前。もしかしたら『本当っぽさ』と感じているのは私の勘違いで、本当は本当なのかもしれない。自分の感じ方の間違いかもしれない・・・と、自分自身も人の嘘の顔も嫌になり、思考を止めて目を閉じる。演奏が始まると『こっちが本物』と明らかに感じる世界に触れる。やっぱり嘘は嘘だ。キッパリ、サッパリとした風に、全てを清めて頂く。

これだけのステージを、して下さっている。これだけの命に染み渡る高尚な、源の力湧き出る演奏の前には、どんな嘘も偽りも、言い訳も、塵のように吹き飛ぶ。

これが五女山。これが聖地。聖なる存在。秋の景色。真と偽にキッパリサッパリと分かれていく。

いだきしん先生さえこの世で、いだきをなさってきて下さったように生きていらっしゃらなければ、自らの傲慢さにすら気付かないまま時を過ごすこと、そして一見そうは見えない人々も、世の中の自立していると見えるほとんどは、そうであることも、それらは気にならないことでした。でも先生を前にしたら、この世の、日本のほとんどかもしれない『当たり前』は失礼すぎる。そんな中ではいくらお金があっても生きていけない。そう内側から叫ぶ声がしました。だから自分はもう『日本のほとんどかもしれない』状態に紛れては生きられないんだともわかりました。『変える側で生きる。』と聞けば、先生や高麗さんや、清らかな魂を持つ受講生さん達ならともかく、自分なんかがそんな大袈裟なことをいちいち言っても・・・と思ってきましたが、大袈裟も小袈裟もなく、ただそうである、そちらを選択する意思をひたすら内に感じました。娯楽で『いだき』へ来ているのではなく、命変容させ世を変える。その命の要求を言葉にすれば『先生のはたらきは他では有り得ない唯一のもの』となります。

普段お世話になっている方をお連れしての参加でしたが、その方の椅子の座り方や態度がどこまでも先生、高麗さん、舞台に顕れる神聖な存在に対して失礼で失礼で『こんな人だっただろうか。』とハラハラしてしまいました。自分の鏡か・・・似ているのか、と痛恨のダメージを喰らいます。どうして普段は紳士的なのに、この場に限ってこうなってしまうんだろうかと、冷や汗をかきました。普段はそんな方ではないからお誘いしたのです。隣を見ないようにして必死で舞台の方に体全体を澄ましました。自分自身ももちろんそうであるように、人間は失敗をして、気付いて、変化し成長していける生き物ですが、この世ではある程度お金を手にして強者に回り、しかも男性優位の社会の中で男性という立場を得ていれば、そのような気付きを得られないまま時計が止まってしまったままになりやすいのだと感じました。

コンサートや高句麗伝説の場では普段見えないような本当のところが顕れ、回数を重ねるごとにどんどん、皮が剥がれていってしまう。自分が一番偉い、くらいに思い込んでしまうのは本当に恐ろしく、それもお金があると、お金である程度人をコントロールできるために、そのまま誰からも指摘もされず気付きも得られないまま、何か違和感や渇き、寂しさなどを小脇に抱えたまま生きていく状態の、いのちから見た悲しさ。それらの満たされないものを直視出来る強さは無いままに、お金や社会的な力を盾に女性や子どもに負わせ、男性は楽になる。でもお金や社会的な力があるために負わせていることにも気付かないまま、女、子供のために、『やってあげている』と思い、女性や子どもの力を奪う循環を成す。自分は偉いんだと勘違いし、頭ばかり大きくなっていく。そこで登場する私のような強い恨みを孕んだ馬鹿な女が、男の人の強さや優しさなどはさておき、一部が全部、0か100かで完全なる馬鹿だと見なし、利用するしか価値が無い、むしろ利用しないとみんなを守れないと小頭で考え、持ち上げ、使い倒し、ボロボロにして、お互いにボロボロになっていく。そこに愛やわかりあうということは無く、まさにジェンダー問題。もちろんここまで極端ではないにしても、自分たちを守るためにも、根底にはこれまでそういったものが多少なりとも流れている気がしたのでした。

それにしてもどうして男性は、自分自身を神のように思ってしまうことが多いのでしょうか。でも自分に似ているともゾッとするのです。まるでお金を持ってこの世の社会のルールで上手くいっただけの子供か赤ちゃんです。下卑た傲慢さの、先生と高麗さんの前では隠せない有様に、自分も全く人様のことは申し上げられる立場にないのは当然百も承知ながら、美しく生きるとは、と我が身を振り返ります。これまで何かしらの目に見えない力に助けられて生きてきたのを、全て自分の力と勘違いして偉ぶる醜さ、傲慢さ、愚かさ・・・。塵や埃の積もる世界で、掃けども掃けども命の中心は見つからず、いいことをした『つもり』、素晴らしい人間の『つもり』、全てをわかった『つもり』・・・。世に穢されていつしかそのようになったのか、最初から魂が無かったのか。これまでの世界で『そう生きるより無かった』のはその人個人のせいではない。でもだからといって一貫して生きる存在への無礼は許されない。認めた時より変われないのです。

美しく生きるとは、一貫すること。大いなる存在に謙虚であり、頭を下げて働けること。高句麗伝説で言葉を遥かに超えて湧き上がる生命の力漲る中、あるものはある、ないものはないのだと白黒ハッキリしていく世界。白黒ハッキリしてもその白黒は、見えない人には見えず、わからない人にはわからない。この世で地位があったり偉いといわれる人にもわからないことがある。本物っぽい偽物。自分の内側にそう感じ取る感性があれば、それは、どんなに打ち消してもあるのです。なんとか今までの世界を否定せずに生きたい気持ちと、いだきしん先生の真の戦いのハレーションの中で、先生の真に触れた魂は嘘をつけないとしか言いようがありません。

みんなが同じようなことばかり言っている良い子ちゃんなのも嫌だ、でもだからといってあまりにも高尚なものをわからなすぎて無礼、失礼千万丸出しで開き直っているのも嫌だ。いやだ、いやだ、いやだばかりで、自分はどうなのか。どうしたいのか。自分がどう在るかより無いんだ。そんなことを考えるのでした。

高句麗伝説の催しをありがとうございます。

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ありがとうございます(*´꒳`*)
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三鷹市公会堂 光のホールにて
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仙台電力ホールにて