「マジ、ウザ!」
ネットでの誹謗中傷で追い込まれ自死した木村花さんや深草知華さん(熊本の高校生)のルポを読んでいて、感情をそのまま特殊な用語で投げ出し、そのことに何の罪悪感も持たない若者たち、いや大人たちに対して、嫌悪と絶望を覚える。「ガイジ」(障害者)、「ナマポ」(生活保護受給者)、「メンブレ」(メンタル崩壊)など、嫌な感じの言葉の羅列に、心が暗くなるばかりだ。どうしてこういうことになってしまうのか。生きる言葉を育て、掛け合うようにするにはどうしたらいいのかと思う。
そこへ「作家になりたい」一浪生から電話かかってくる。かれは「思い」ばかりで、行動が伴わない。福永武彦の『草の花』を読み、その繊細な文章に魅せられ、小林秀雄の文章に触れて、その独自の見解に感動し、知的で独自の生き方を夢見る。しかし、現実の壁に突き当たって、思うようにはならないことを嘆いてばかりいる。親には呆れられ、友だちと比べては一喜一憂するばかりで、具体的な選択や行動に踏み切れられないままなのだ。「予備校など辞めて海外旅行へ行ってみたら」と勧めても、当然そんな勇気はない。わたしに導いてほしいなら入塾せよ、と言っても、親を説得してくれたら、と訳の分からないことを言う。講座を勧めても、「予備校を休めない」「金がない」云々で来ない。わたしの知人たちも、「もう放っておくしかない」と言う。しかし、折角慕ってくるものをかわいそうだと思うと、電話を切るわけにもいかず、毎回、長電話で、ともあれ「決めて動け」と言うも、同じ繰り返し。もう秋なのに、志望校一つ選定しないでいる。「決められない自分にうんざりしています。」もう、「マジ、ウザ!」だ。おっと、この言葉は使うべきではなかった。
ともあれ、こうして書き出してみる、人に伝えてみる、息長く付き合っていく――。そして、今日は安藤忠雄さんの言葉が、わたしを支えてくれた。「世の中、本当になにが起こるか分からない。」「お金も才能も後ろ盾も、何がなくとも“ないならないなりに”生きて行くことはできる」という言葉(『安藤忠雄仕事をつくる』)によって、「開きなおってみる」も加わった。(9/4)