なぜ存在するのか
三鷹での存在論に参加させて頂き誠にありがとうございました。京都から三鷹へ車で向かう道中は、内面と向き合い、自身の頭の中を整理できる機会となりました。尊い時間を味わいながら向かえることに生命は喜んでいる体感でした。ここ2、3ヶ月間は、自分の『嘘つき』と言う状態がずっしりと心に刺さり、答えを出せず、向き合う日々でした。『嘘つき』の状態とは、物事を決めた時の自分の心に半端があったこと。半端がありますので、その後の活動にも半端が出てきますし、約束、提示される行動も十分に出来ず、求められる結果も未達が続くとは自明のことです。『嘘つき』と認識しますと自己嫌悪に向き合う日々でした。
物事を決心する時の自分の心の半端を知り、自覚して、現在と過去を振り返りますと、家庭や職場で物事を決心してきた時の自分の心の半端とつながり、恥じるばかりです。恥じる自分の状態を自覚した後にどうするかとは、恥じる生き方をしたくない、嘘つきの状態から脱却したい、自分の存在とは、どう生きるか、との思考に至ります。しかし、書いて気づき、先生にご質問させて頂き、気づかせて頂きました事は、コインの表と裏です。嘘つきと言うコインがあれば、嘘をつかないように生きようとしても、表と裏をひっくり返しているだけで、嘘つきというコインは無くなっていない。嘘つきということを隠すために嘘をつくとは最近忘れていたコインの表と裏のことを思い出させて頂き、恥ずかしい思いと、気づかせて頂きました機会にありがとうございます。
嘘つきの状態が部分的なことかどうかは分かりませんが、仮に部分的なこととしますと、部分的なことを思考していても、そこから抜け出すことはできないと再認識します。問題解決といわれるような問題も、部分的なことと捉えますと、解決できないから問題であり、問題に目を向けているときは問題を解決できない、部分的なことに目を向けているときは、部分的な事は解決できない、との考えに至ります。人間の存在、元存在とは何か、どう生きるか、なぜ存在しているかという問いが全体的な問いだとしますと、全体的なことを考え生きることで、部分的なことが無くなったり、変わっていくのかと再認識します。美しく生きる、倫理的実存、宗教的実存に向かい、あるいは取り戻す生き方をしていきます。
DXの時代は嘘をつけなくなることは、その場ではDXと嘘のつながりがわからず理解できるように努めます。国に対して、あるいは個人が表現することに命がけで表現するかと言う体験をしたことがあるかとは、現代日本にいると分からないことです。しかし民主主義ではない国々、専制国家では、個人の考えることを表現することは、死と隣り合わせ、命がけで表現するとは想像でき、歴史が教えてくれます。より学んでいきたい欲求生まれ、知ること、勉学に励みたいきもち生まれます。日本での同調圧力の中で、自分の考えを言わない、言えないことも他人に対して嘘つきの状態、自分に対して嘘つきの状態かと自問します。アダムとイブと人間の嘘は関係あるのかを知りたいところですので知るところから努めます。ありがとうございます。