三鷹コンサートをより
こんなにも自分を超越し、愛の経験をしていても「記憶喪失」とは、わかります。一昨夜の経験の後の昨日、コンサート会場に辿り着くまで、それまでのその日一日を振り返りました。コンサートで湧き上がり、指の先まで自分自身に満たされたあの自分は、人と話した瞬間、かつての自分の行為となっておりました。反応が同じなので言葉が同じ、だから人の反応も同じなのだと道中考えていたことです。何を覆い隠すのかと自分に問い、意識的にでも変えて行かなければ、本当に勿体ないと感じます。そして私の新しい言葉はなんだろうかと感じます。第一部は、私には龍が現れ、ひたすら「悪」を退治しているかに感じられました。激しい表現は私達の中、そして世界中の黒いススのような淀んだ塊を一掃、淘汰しているかのようで、ススで一杯の頭は、ひたすら音に項垂れるよりない状況でした。そして第二部では、妄想にて大変恐縮てすが、私には先生と奥様が愛くしみ、対面されているようで、おふたりで「ひとつ」と表現される「愛」に、始まりは感じられました。そして、やはり三鷹の地には高句麗の心がそのままあり、高句麗人が集い、ぬくもり溢れる、豊かで満ち足りた空気と存在を感じました。疎外が人間と錯覚する社会でも、私たちの心はこの「ぬくもり」を知っているのではないかと感じられます。高句麗の地で集ったように、ここでも集い、そして私達の心も包まれます。私の人生の原点、源は「ここ」と実感され、「いつか帰る」と言葉が心の底から付き上がります。
三鷹高句麗の地にての素晴らしいコンサートを、誠にありがとうございました。
田嶋利江子